今年もパオッコ遠距離介護セミナーに招かれ参加しました。
数えること、今年で7回目の参加となります。
今年は、Ⅰ部の講演が長田久雄氏(医学博士・桜美林大学大学院老年学研究科教授)があり、Ⅱ部で、体験者と専門家が語る!お悩み軽減!遠距離介護アドバイストークが企画されていた。
僕が招かれたのはⅡ部ですが、約90分興味深い事例とやり取りがなされていました。
第1の事例では…認知症が疑われる遠距離介護の父親に対して、車の運転の危険性を伝え、どのようにして運転をやめさせたら良いか?悩む娘さんとその家族の現状が語られていました。
どの時点で、車の運転をやめてもらうことが得策なのか?娘がいくら説得しようとしても、簡単に忠告を聞く男親はいないでしょう。
まして、自分の運転能力に疑問を持たない親の場合、(今まで大きな事故もなく、車の運転を続けてこれた人であるほど)「やめろ」と肉親から言われると、それに対して激しい抵抗をすることが予想される。
ましてや、他に趣味がなく、車を運転して遠出したり買い物したりを楽しみたいお年寄りにとっては、その行動手段を取り上げられることは、まるで自分の老後の生きがいの手立てをもぎ取られるように感じてしまうことでしょう。
しかし、運転を続けることにより、大きな事故の引き金になってしまう悲劇が、日本社会のあちこちで起こっていることを踏まえ、当事者たる家族は、尋常ではない悩みを抱えてしまうのです。
→この事例の場合、出来ればかかりつけのドクターなどに間に入ってもらい、運転の危険性を説明して、免許の返上が得策であることを伝えてもらうことが良いかもしれない。医者の言うことなら、やむなく従う可能性があるからです。
こういう場合の医者の威厳を、上手に使わせていただくことも一つの知恵です。
しかし、それでも効果がなく、親戚知人等誰に頼んでも本人を説き伏せることが出来ない場合、警察にお願いして話をしてもらうことも選択肢の一つと考えられる。
高齢者の運転問題は、今後ますます、日本の社会的問題として深刻化する可能性がある。その意味では、技術的な自動運転装置の開発や、安全装置、事故防止システムの早期運用が強く求められていると言えるでしょう。
私個人の意見としては、都会に住んでいる者として、車に乗らなくても十分最寄りの交通機関を活用すれば、生活や活動に困ることはないと考えている。現実に、ここ10年近く、マイカーなしで生活が維持できており、「カーシェアリング」を活用すれば、必要な時に必要な時間だけ車が乗れる方法も取れることが出来る。車を所有したりガソリン代・税金の支払いを考えれば、年間かなりの経費節減が出来ている。
こうして、車を所有しない、車を運転しない暮らしは、そんなにつまらないものでもないことを実感している。でも、一方では、車がない生活が考えられない、車を前提にして生活をされてきた人たちがおられる。彼らにとっては、死ぬまで車を使い続けて暮らしたい、そう感じていることでしょう。
この問題、一筋縄では語れない様々な問題をはらんでいます。
いろんな立場の意見を聞きながら、お互いの立場を理解しつつ、話し合いを積み重ねていけることを願うものです。強制ではなく、納得こそ必要ですから。
第2の事例については、時間がないのでまた次の機会に書くことにします。
本日はここまで。
辺野古訴訟における福岡高裁那覇支部判決に思う。
9月16日、国が訴えた基地移設計画を巡る訴訟裁判の判決が福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)で言い渡されたという。
承知のように、その内容は全面的に政府の見解を追認し、沖縄県(翁長雄志知事)が承認取り消しの撤回に応じないことは違法だとの判断が下された。
この判決を後押ししたのは、時の政権=行政の論拠であり、法的な分権のもとに、政府と沖縄県の両者の間に立った、法的分権としての司法見解とは程遠い判断と言えよう。
そもそも、司法は、行政の根拠とする内容と、それに相対する地方自治体・住民が主張する意見とその根拠に対して、話し合いの土台となる提案と調整の軸を明らかにすることが求められている。もし裁判所が、単に政府の方針を追認するだけの、“法的露払い役”に成り下がるなら、もはやそれは、3権分立を旨とする民主主義の司法とは言えまい。
今回の高裁那覇支部の判決は、最終判決ではない。沖縄県の反発は必至であり、次の法的手続きや裁判が始まるだろう。もし、政府が、今回の判決を法的な盾にして、現地の工事を強行するならば、沖縄県民の激しい反対闘争に遭遇するだろうし、その際に不幸な衝突と憎しみが増長することは目に見えている。こうしたやり方が、民主主義とは程遠いやり方であることを政権とその施策に賛同する人たちに伝えていく必要がある。行政と司法がグルになり、沖縄の声を封殺することを許すわけにはいかない。こうした流れについては、実は本土の私たちに問われ突きつけられている問いではないか?と思う。
私は、沖縄県民ではないが、今回の政府のやり方や司法の判断に対して、強い憤りを覚える市民の一人です!
沖縄の人たちの、基地を無くして欲しいという願い、これは当たり前の平和を希求する市民の声です。普天間基地の危険を除去する必要性・緊急性と、新たに沖縄辺野古に新飛行場を作る案が不可分に結びつけられている現在の基地移転策には、「唯一の解決策」としての根拠はない。これは押しつけです。
むしろ、他の方法を見つけられない、現在の諸政党案の貧困をさらけ出していると考える。
何故、沖縄に、また新しい基地を作ることしかできないのか?そこを考え、基地のない世界を展望する平和政策を導き出す勇気も能力も持ち合わしていないのではないか?
私たちは、学校教育で、平和教育を受け、日本の平和憲法を維持していくことの大切さを学んできたのではなかったか?
今、沖縄が抱えている基地問題の現状を考えるとき、本土に住む市民の立場が問われていると考える。戦後70年、日本は平和を享受し、経済発展の恩恵を受けた。しかし、沖縄に象徴される基地問題を考えるとき、本土のエゴが如実に現している問題としてこの問題をとらえることができると思う。
沖縄は、新たな司法当局からのしっぺ返しに対して、困難な抵抗闘争を始めていくだろうと思う。その際に、民主主義の根幹を守る戦いとして、沖縄の運動に連帯していくことが、本土の私たちのとるべき立場であることを、痛感します。
リオディジャネイロ五輪の楽しみ方は?
リオのオリンピックが始まった。7日、水泳男子400m個人メドレーで萩野と瀬戸が1・3位となり、表彰台に二人が立った。素晴らしいレースでした。
ここではっきりしておきたいのは、メダルがどうのこうの?そういう話題にして欲しくない。今日の朝日の新聞記事にも書かれていたが、米国ではメダルがどうなるのか?という発想や予想はしないようです。競技はメダル争いにするのではなく、選手各々の自分との戦いであり、今までの自分にため込んだ力と技術を、最大限に引き出すことに集中すること、そこに焦点を当てるそうです。
マスコミが、やれメダルが何個とれるのか?という話を持ち出すごとに、視聴者がそういう関心に誘導されることは大変遺憾だ。
結果として、表彰すべき成果を残せたことについては、大いに称えてよい。しかし、たとえ、レースで最下位になろうとも、最後まで選手の力を振り絞って戦ったことについては、勝者と同様栄誉を送りたい。それがスポーツ精神。
ちょっと、マスコミ連中のしゃべり方を、教育し直して欲しいものだ。
ところで、オリンピックが終わるまで、夜時間帯の競技番組が目白押しで、寝不足気味になってしまいそうです。
視聴者としても、最後まで楽しむために、食事や睡眠は、しっかり確保し、健康で過ごしたい。
やはり、見る方も健康でないと、協議を100%楽しむことは難しい。
特に私の場合、目に疲れが来る。
仕事でも、パソコンを使うことが多く、テレビにかじりついてみる時間が長引いてしまうと、どうして眼精疲労になる。見るときは集中して、そして、目を休ませ、だらだらと見ない。これが私の、在宅テレビ鑑賞法です。
それからもう一つ、開会式のビデオを見たが、一番の印象はいわゆる「難民選手団」が行進したこと。
祖国シリアは、現在も戦火の中であり、オリンピックを楽しめる状況にない。しかし、その中でも、派遣選手がオリンピックにやって来た。
思い切り、力を出し切って、協議に集中して下さい。
あなたたちが、立派にオリンピックに参加した歴史が、きっとこれからの次世代の人々を勇気づけ、平和国家建設を実現していくことでしょう!
ブラジルでは、オリンピックどころではない財政問題や社会問題が山積みしている。大統領がオリンピックに姿を見せない現実を考えると、五輪後のブラジル社会の行方は、いばらの道と言っても過言ではあるまい。貧困の格差も広がり、立て直さなければならない課題は山とあるようです。
浮かれる現実ではないことは事実です。
しかし、世界の注目を浴びて、人々が平和の手をつなぐことは、今後の社会平和にとっては無駄ではないと考えている。
凶器の刃は、どこで育まれたか?
先日、承知のように相模原市の障がい施設で、19人の障がいを持つ入所者が就寝時に殺される事件が起こった。
夜中の2時前後と言えば、ほとんどの職員が不在で、仮眠しており、僅かな係りだけが入所者を見守っている時間帯。
犯人は、そうした係りが手薄な時間に、外からいきなり侵入し、用意していた凶器で次々に障がいある無抵抗の人たちを殺害していった、という。
警備員役のスタッフも2名いたらしいが、何と仮眠中で侵入者に気付かず眠っていたという。いったい、何のために雇っていたのか?
犯人は、元施設の職員で、「宜しくない言動」で退職し、衆議院議長に今回のような犯行を正当化する手紙まで送っていた。その内容が大量殺人をにおわす文言だったので、強制入院措置となった。しかし、僅か10日で退院し、今回の事件が実際に行われた。
→明らかに、早すぎる退院と、その後のフォローが伴わない現在の精神医療制度の至らなさ=脆弱さが如実に示される結果となった。
もし、入院期間が厳格に伸ばされ、長い年月をかけての治療が継続されていたら、あるいは今回の事件は起こらなかったのかもしれない。
しかし、これも結果論であり、現実は起こってはいけない犯行が実行され、それを防止することが出来なかった。
平成に入ってから、これほどの数の殺人が一人の犯人により実行されたことはなかった。おそらく今後も、今回の事件はおぞましい事件として記録に残されることとなるだろう。
一番弱い立場の、重度の障がい者たち。彼らは、自分が選んで障害を持ったわけではなく、避けられない遺伝や病気の変異等により、身体や精神に異常を持ってしまった人たちだ。健常者と同じ能力を持っていないといっても、人としての人間性を持った人たちなのだ。
社会が、こうした弱い立場の人々を保護し、守ることは当然のことであろう。しかし、今回の犯行は、こうした人々を、まるでヒトラーのユダヤ人虐殺のように、社会から抹殺すればよいという、固定観念を絶対化した考え方を正当化するものと言えよう。
思想の自由は擁護されねばならない。しかし、他者の存在権と生活を奪い去っても許される、命を奪っても許される等々の思想は、認められてはならない。これはあまりにも当然の人権法です。
もしそうした偏った思想により、実際に人を傷つける企画や行動が行われる危険があるならば、事前にそれを防止するための実力行使も必要であろう。
今回の犯行に対しては、厳しい制裁を加えることは必要であるが、たとえ犯人を極刑に処しても、奪われた19人の命と、今なお大けがを負って入院している人たちの傷は癒えることがない。また、多くの障がいを現在持っている人たちの事件に対する悲しみは、消え去ることはない。
あまりにも、残酷で、取り返しのつかない行為に対して、改めて社会的な非難と怒りを表明する。
犯人は、逮捕されてからも、映像で見る限り、薄ら笑いを浮かべていた。
反省の態度など皆無と言えよう。
今回の事件を教訓にして、人間の人権とは何か?何故弱い人々の人権が守られねばならないか?しっかりと突き詰めて、考える機会としていきたい。
それぞれの持ち場において、もし、似たような言動や考え方を持つ人がいたら、そのまま放置せずに、しっかりチームを作って相談対応、教育サポートが出来る体制づくりをしておきたいと思う。
私たちの社会には、まだまだ恐ろしい凶器の思想が蠢いているかもしれない。自分の中にも、時として他者を否定し抹殺しようとする衝動が隠れていることがないだろうか?
夏の近況報告となります。
ケアマネリングみなとは、6年目となり、港区で孤軍奮闘しております。
独立型の居宅介護支援事業所として、アピールをしていきます。
6月より、新しいスタッフを迎え、常勤3名体制(非常勤は1名)で、スタートしております。
「特定事業所加算Ⅲ」についても、この1年は返上しておりましたが、加算が出来るようになりました。
事業所内研修にも力を入れ、メリハリの利いた研修体制の確保と、積極的な外部研修受講を業務の許せる範囲で奨励しています。
4人のうち、私以外は女性ケアマネとなり、圧倒的にウーマンパワーが優勢な事業所になりました。私は、とても太刀打ちできないので、おとなしくしております。・・・昔で云えば、大奥状態ですが女性のしゃべくりパワーに押され気味です。
この暑い夏を、4人のスタッフが仲良く賑やかに過ごすことで、楽しく仕事が続けていけるよう、見守っていきたいです。
とりわけ、課題となっているのが、新規の利用者をどうやって見つけていくか?です。
じっと待っていても、利用者はやってきません。
積極的に、情報を発信して、この事業所を知って頂くことが必要だと痛感しています。
手作りのチラシも用意して、この夏は、まずはポスティング宣伝活動をしていきます。
それと、土曜日は基本業務日ではありませんが、事務所を開けておいて、いつ問い合わせがあっても、対応を迅速に行えるようにします。
このブログを読んで頂いた方の中からも、お知り合いの方等が居られたら、是非ご紹介下さい。
宜しく、お願いいたします。
なお、事業所のホームページは以下のアドレスとなっております。
此方の方も宜しく!
電車の中で、誰もが体験する光景を取り上げたい。
梅雨の時期、雨が降ったりやんだりの日曜日、急行電車に乗り約30分の時間を過ごしていた。
乗車率は100%くらいだから、立っている人は少ない。
斜め前に座っていた誰かの傘が揺られて通路に倒れている。しかし、誰も拾おうとしない。座席にいる何人かの誰かのものと思われるが、拾われることなくそのままになった。途中、車掌が傘をまたいで行き来した。普通なら、「この傘はどなた様のものですか?」と聞いてもよさそうなのに。なぜ持ち主がだれか聞かないのか?「車掌としては気が利かない」と私は感じる。
私が見たところ、傘の近くにいる娘が持ち主では?と思われる。彼女は電車に揺られてコックリコックリ目が半閉じ状態になっている。時折、横に放置しているスマホの画面を見ているようだが、意識はもうろうとしている様子。停車駅が二つほど過ぎて、乗車してきた人たちが迷惑そうに通路に転がっている傘をまたいで過ぎても、一向に気にも留めないようだった。「人の通行を妨げている障害物」が目の前に落ちているなら、それを除去しようと普通なら感じるはずだ。しかし、娘は知らんふり。まるで倒れている傘には興味が無いかのように。
私の自宅の降車駅になり、席を立つと娘も席を立った、そして、何事も無かったかのようにその落ちて転がる傘を拾い上げてである。…ところが、数歩娘が歩き始めたところで、向隣に座っている40台と思われる女性が「すみません、すみません!」と甲高い声を上げた。それでも娘が呼びかけに答えず降りようとするので、倍くらいの音量で「すみません、これ!」と小さな小物入れバッグを指さして叫んだ。さすがに娘も忘れものに気づき、引き返して小物入れを取り上げた。
驚いたのは、それからだ。礼も言わずに、忘れ物を取り上げ、そのまま何事も無かったように下車して行った。
その光景を目の当たりにして、私の気持ちが理解に苦しむ思いになった。一つは、常識がない娘っこに対して、もう一つは小物入れの忘れ物があることを促した女性に対して。「何で、済みませんなのか?忘れてるでしょ?」で良い。さらに付け加えて、「しっかりしなはれ!」と付け足してよいのではと感じる。また、当の娘に対しては、「言ってくれた相手に、お礼を言うのは人としての礼儀だ。そんなことが分からんのか!」と一括してやりたく思う。今日は父の日だから、男性として、少し凛々しい言葉を言っても許されるのでは?とも感じる。
たかが、日曜日の急行電車内での一コマであったが、書き留めておきたい場面と思えたので、文章にしてみた。
登場人物は、車掌と娘と横に座っていた40代女性であるが、こうした一連の流れを見て何がしかを感じている自分という者がいた。自分は今日の事に関しては単なる傍観者だ。しかし、もし自分が車掌問職業についていたら、転がっている傘を放置してそのままにすることはないと思い返す。また、娘の横に座っていて、忘れ物の子袋に気づいたら、済みませんとは言わず、「娘はん、忘れとるで!しっかりしいや。」くらいは言わせてもらうだろう、と思う。「ぼやぼやしてたらあかんで。それにちゃんと礼が言えなあかんやんか」とは思っていても言えないが。
でも、もしその子の父親なら、そういう言葉が口から出てしまうかもしれない。忘れるのは仕方がないとして、人から声をかけてもらったら、きちんと挨拶が出来る子供たちが、今減っているのでは?
今日の父の日、そんなことを考えました。
倒れても、また甦る自然の力。巨木の姿。
昨日、久しぶりに家族そろってお出かけをした。
奈良の、藤の花が見ごろとあって、JRで桜井・天理周りで奈良へ向かった。
絶好の好天気で、良く歩きました。
藤の花は、実際の見た目より、写真にするとよりその姿が美しく見える。
以下に添付しているスナップをご覧ください。
そして、印象に残ったのは、この巨木に関する説明看板と、嵐で倒れてもまた起き上がり成長する巨木の姿です。
昔の人は、これを自然の神秘の力として、自然の神業として崇めた。
現代に生きる我々が見ても、やはり胸を打たれる。
樹木が持つ生命力を知り、そこから人間が学ぶものがある。
生命あるものは、必ず終わりもまたある。しかし、すべてが終わるのではなく、様々な地上の生命と繋がり連鎖している関係がある。
大きな意味での、生命の営みを知ることは、人としての生きざまを知るためには、欠かすことが出来ない深い学びであることを、改めて今日知ることが出来たと思う。