「走ることについて語るときに、僕の語ること」を読んで。

「走ることについて 語るときに 僕の語ること」
村上 春樹著
何故、この本を読もうと思ったのか?うまく思い出せない。
著者が、かなりの 走ることが好きな作家であることを知り、その走る理由について、語っている書物があること、その本が多くのランナーたちにより愛読されていることを知ったことが、読むきっかけになったことは間違いない。その情報を知ったのは、新聞記事・もしくはラジオ深夜便から得たものかもしれない。僕の情報源では、前述した新聞とラジオが主たる情報源になっているから。
 僕自身は、走ることができない。・・・もう2・3十年前なら話は変わるだろうが、少なくとも今は、満足に自分のペースで走ること自体が難しい。下肢筋力が低下していることに加え、体全体の運動機能が、飛んだり跳ねたりをやりこなす体力を持ち合わせていない。
 では何故、こうしたタイトルの本に興味を持ったのか?
一つは、村上春樹の本を、今まで全く読まなかったから、一度どんな語りなのか読んでみたくなったことがあげられる。最近、ノーベル文学賞候補に、常に彼の名前が登場して、選考される候補作家として取り上げられることが常となってきている。ならば、一度は彼の本を読んでみても良いのではないか?と考えたから、今回この本を紐解こうと考えた。そう思ったことは事実だと思う。
 もう一つ、僕の知人で、走ることを趣味としている人たちが、何人かいることが分かり、その人たちは走ることを一つの共通趣味として、コミュニケーションを築いていることを知った。だから、自分も走りたいとは思わないが、「如何してなんだろう?」という素朴な疑問を持ち、考え方生き方の一端を知りたいと思ったことも事実です。

 人間というものが、精神と肉体を持ち、両者の釣り合いの中で生きていることを思う時、肉体を研ぎすませたり、鍛えることで、少なからず精神的な領域においても何らかの影響を与えるものだということを生活の中で知っている。
 例えば、病気を持つ毎日の中では、生き方においても病の影響を受けた毎日の行動や物事の考え方が支配的とならざるを得ない。分かり易く考えて、がんに侵された人が考える人生観は、残された時間と生活の中で何ができるのか?を考えるだろう。その場合、人生を楽しむ要素というものはかなり限定されてしまうのではなかろうか?進行する病気に対して、有効な治療が期待できればその病気から逃れる可能性が残されているが、それさえもかなわない場合、余命期間で可能な活動はおのずと限定されたものになるだろう。
 残された命の灯を、肉体という仮住まいから解き放つものなのかどうか?それは分からないが、少なくとも、命ある限り死に近づく肉体を通して、自分自身の意識というものが最後の感覚までを司りながら、自分自身の人生を全うさせることとなる。
 そうした場合においても、思考し物事を感じて自分の頭の中に生きている証を刻印していくことになるのだが、体力がどのくらい残されているかどうか?の目安は重要なポイントだと思う。もしも、体を動かしたりできる能力があるならば、いわゆる気分転換が可能となり人間としての認識能力は最低必要ラインをクリヤしていると言えるだろう。
 本題に戻りたいが、村上さんにとって走るということは、小説家として仕事を続けるためには抜かすことができない行為として語られている。50代を超えても走り続け、60代になってもやめない動機には、もちろん走ることに積極的な喜びを感じているからといえるが、文章を書くことを生業とする彼の生き方に相通じている。
 フルマラソンウルトラマラソンにも定期的に参加する彼は、一方では長距離ランナーとしての趣向を持っていることは事実だと思われるが、そのことの意味は簡単に語れるものではないことをまず押さえておきたい。簡単に説明できないからこそ、彼はこの本を書き上げまとめあげたと言えるだろう。

 彼は、著作を書くベースとして、海外の地で滞在し、作品を書きかげていることが長い。その間、奥さん以外には、知人友人がいない環境を何故選んでいるのか?について考えるとき、彼は孤独を選んでいることを知る。当然、そうした地でも、彼は定期的に、計画的に走っている。それも一日10キロ、15キロといった距離をマイペースで。
こうしたランナーは、趣味で走っているとはいえ、単なるジョギングの枠を超えた走りの領域といえる。まして、マラソン大会に備えた1・2か月の走行距離は、フルマラソンなりを走りきる体力をつけるために、距離や走破時間も目標に合わせながらの毎日の走りとなる。早朝から走り出て、数時間をランニングの為に集中する。祭日だからと言って休みは取らず、あくまでも目標のレースに参加し、無事完走することを想定して、スケジュール管理される。時には、専門家のコーチにも依頼して、自分の走りに関連する助言=コーチングをマネジメントし、レースから逸脱することがないように自分の走りに対して管理を徹底している。
 こうした彼の走行姿勢・走ることのこだわりは、単なる健康ランニングを超えたものとしてとらえている。鉄人レースに出たこともあり、泳いだり自転車に乗ったりもできる。しかし、やっぱり「走ること・それも長距離走が自分に最適である」と彼は語っている。
 おそらく、これからも、文章を書くこと、走ることは続けていく人生だと想像する。その人生がどうなのか?それは人が評価する。傍のやじ馬たちが何と言おうと、彼は毎日を走り続け、そして文学を書き続けていくのではなかろうか?そこにどんな意味があるのか?それは、私には分からない。しかし、彼にとって走ることは生活の一部であり、ものを書き考えることもまた、生活行為の重要な一部分であり続ける。
 最後に、彼があとがきに書いている言葉を添えて、終わりにしておきたい。
「僕は、この本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。・・・僕としては、「走る」という行為を媒介にして、自分がこの4半世紀ばかりを小説家として、一人の「どこにでもいる人間」として、どのように生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。
 この次は、また少し期間をおいて、彼の本を読んでみようと考えている。