被爆者健康手帳と原爆症認定を考える。

2003年現在で、原爆症と認定されている方は、2271人だけです。

他の99パーセントの被爆健康手帳を交付されている人達は、未だ認定されて居ない方です。

認定に関わる多くの訴訟では、被爆者が高齢化して、亡くなってゆく人もどんどん出てきているなか、政府は、裁判での時間稼ぎを果てしなく続けて居ます。



二月三日、被爆者の東数男さんが亡くなりお葬式があったそうです。76歳でしたが、後半の11年間は、裁判での争いに費やされたものでした。

彼の場合は、長崎市の学徒動員として、三菱重工業兵器製作所で被爆しました。倒壊した瓦礫の下に埋まりましたが助け出され、背中一面にガラスの破片が刺さっていたとの事です。激しい下痢と、二週間後には髪の毛がぼろぼろ抜け落ちました。しかし、戦後様々な職業を転々として生き抜き、50代半ばにC型肝炎を発祥しました。94年に厚生省へ原爆症の認定申請を出し、5年かかって出てきた答えは、申請の却下でした。



すぐさま、東さんは国を訴える裁判を起こしました。

・・・20回を数える口頭弁論は背筋を伸ばして自ら廷内に行かれていたそうですが、21回目と判決の日は車椅子にて、弁護士に押されながら出廷された。03年3月31日、東京地裁は、原告の訴えを認めた。直後に、自ら厚生労働省に対して書面を送られ、「体はもうボロボロ。絶対控訴しないで下さい」とお願いした、が、12日後に、国は控訴を行った。

眼に見えて弱ってゆく状態の中、昨年は、肝硬変と肝癌を併発する。・・・とうとう一度も控訴審に出られないまま、1月29日に、亡くなられた。担当の弁護士は語っている。「国は、被爆者が死に絶えるのを待っているとしか思えない」と。



「俺は、勝訴まで、絶対生き抜くんだ。」死の直前まで、東さんは話しておられたと言う。

戦争中に学徒動員され、工場にて被爆して負傷し、身をすり減らして働くも原爆による病魔が偲びより、結局原爆症と認定されること無く、死んでゆかねばならない人達、・・・此れは、過去の原爆による被害を国が放置する遣り方である。

国家的な責任として、原爆の後遺症に悩む人々を救済するのではなく、有耶無耶に澄まそうとする厚生省や、政府のあり方は、間違っていると思う。一体、何処まで、被爆者を苦しみの中に放置し続ければ気が済むのか?

27万人の被爆経験のある人達を、十分に治療し労うことは、当然の保障であると考える。こうした、被爆者の対策を放棄する政府に、此れからの平和政策を託す事は出来ないと思うのです。



私達は、原爆後に生まれた、被爆を知らない世代です。しかし、こうした日本での被爆者の認定を厳しく規制する現在のあり方を、もう一度見直し、全ての犠牲者を無条件に治療し、ケアーする体制が必要且つ求められていることを指摘したいと思います。