中国残留日本人孤児の国家賠償請求訴訟が結審する。

全国の孤児1900名(大阪訴訟の原告は140人)による、集団訴訟が、ようやく結審した。来る7月6日に大阪地裁にて判決が出される見込みという。この裁判は、太平洋戦争終結後に早急な帰国措置を取らず、悲惨な状況下に孤児たちを放置し、多くの犠牲者を出したこと、また、帰国後も、十分な日本語教育を自立支援として教育せず、結果的に多大な苦しみを負わせたことに対する訴訟であり、一人当たり3300万円の賠償を求めたもの。



原告団長の松田利男さんは、1941年に、4歳のとき、家族と共に旧満州へ開拓団として入植し、終戦間際の45年に、ソ連侵攻を逃れるため西方のハルビンへ、・・・ところがそこでも関東軍に見捨てられ母の背中で末の弟は餓死したという。

難民収容所では、1日1回のコーリャンの粥で飢えを凌ぎ、祖父母、父、姉を次々に亡くした。最後には母も餓死し、46年3月、松田さんは中国人養父母に引き取られることとなった。



・・・松田さんの例のように、大人達がいなくなって、中国人の養父母により命を永らえたケースが沢山見られ、それが現在の中国人孤児の実体と見られる。このことは、人道的な配慮から、日本人の子供たちが中国人により命を助けられていることを確認し、早急にその孤児たちを日本に受け入れる用意がされる必要があることを示していると思う。この事業は日本国の仕事であるはずである。・・・早い話、自分の子供たちが、こうして中国人に助けられて育ち日本への帰国を待っているなら、如何するか?と考えれば、答えは明白である。



話を、松田さんの経歴に戻そう。

松田さんの場合、日本人であるとの事で、文化大革命当時は、無実の罪をかけられた。養父母と妻は、心労がたたり、71年に相次いで死亡する。この頃、松田さんは、「祖国に帰りたい」と強く思い出したという。

72年に、日中国交回復が実現し、兄とも連絡がつき、76年に北海道釧路市に帰国できた。40歳であった。・・・幼い時、日本を後にして36年の年月が経っていた。この間、日本は戦争に敗れ、多くの肉親が無くなり、あまりにも多大な傷を心に負っている自分に気づいた。





ところが、受け入れた祖国は冷たかった。中国語を話せる人は身近には居ないし、職安に行っても、日本語を話せないと仕事に就ける見込みが無いと、突き放される・・・

そこで、松田さんは、自分で辞書を買い、粗大ごみからテレビを手に入れて、深夜まで日本語を独学したという。苦労の後ようやく仕事を手にして、就職した列車整備関係の事業所からもやがてリストラされ、85年に、姉の住む堺市へ移る。そして、98年に砕石工場を解雇されてからは就職出来なかった。「せめて、10年早く日本に帰れて居たら・・・もっと、早く言葉を覚えていろいろな仕事が出来た・・・」と松田さんは悔やむ。



国は、84年に、残留孤児を対象に日本語教育を始めたが、教育期間は1年だけに過ぎない。これでは、十分な教育期間ではなく、満足に日本語を話せない。職にも就けず、生活保護に掛かっている仲間が多い現状となる。

松田さんは、残留孤児のリーダー的存在として、現在も様々な問題の相談に当たっているとの事。求められることは、早く、国の賠償責任が明らかにされ、日本で生活する孤児の人たちが安心して老後を過ごせるよう様々な配慮をすることだと思う。軍人に対する保障をするのなら、孤児の人たちにも生活の保障を講ずる事は当然と思う。

中国残留孤児の問題は、如何に日本政府が戦争における国家的賠償の問題や、保障の問題を後回しに放置してきたかを物語っている。これでは、戦後の処理が、まだ終わっていないと言われても仕方ない。軍備増強云々を語るまでに、まず、戦争の終結に伴う、人道的な政策を徹底すべきと思います。これは、対内的、対外的を問わず、まず現在の政府が手がけてゆく必要のある責務であると考えます。こういった事項が十分に行われてから、国連常任理事国として選ばれる資格が出来ると考えます。近隣の中国や、韓国でさえ、日本の常任理事国入りを非難されている現状では、小泉さんが如何に自画自讃しようとも、理事国に仲間入りする資格は無い、と思います。