生涯収支が平等になるべきなのか?

最近、少子高齢化の問題で、世代による格差が盛んに問題にされている。1960年生まれを境にして、今まで黒字になっていた受け取り総額が、赤字に転化すると言われている。この概算は、介護サービスでの給付・医療保険での治療費等・年金生活での受取額・をトータルとして概算し、個人が支払った分との差額を計算して出される。45歳以降の人については、軒並み受取額の減少が加速されることになる。



因みに、1980年生まれの人は、生涯で、¥2080万円の赤字、1990年生まれでは、¥2484万円の赤字となり、どんどん若い世代の負担合計額が増えてしまう。



しかし、これは、毎年積み上げられる、道路や施設、など、個人の支払い金額だけでは計算出来ない世代が受け継ぐ社会的資産に付いては計算がされて居らず、一概に、若い世代だけが”しんどい目”をしていると言う考え方には抜けている側面もある。



今後の問題としては、世代の変遷の中で、「団塊の世代」といわれる人たちが、高齢者の仲間入りをする2025年以降の問題である。実に29%を占める人が、65歳以上の高齢者となってしまい其の人達を、どんどん少なくなる若い世代が支えなければならない形になる。

こうなると、沢山の御年寄りを年金で食べさせていくためには、それだけ多くの負担が若い世代に要求されてくるわけである。

しかし、この高齢化の問題は、何も今に始まった事ではなく、予想されて訪れるものであり、経済的対策がきちんとなされる限り、パニックになる事は無い、と思う。

高齢化する御年寄り達は、自分達の家族や兄弟を支えるために長年働いてきた社会の貢献者達である事を確認したい。其の社会の貢献者を温かくもてなし、安心して暮らせるよう配慮する事は、其の社会の一員として当然のことである。然るに、沢山の御年寄りが、どういう風に生き生きと暮らせて行くのかを今からきちんと計画する事こそ、遣らなければならない課題であると思う。



年を取っても、健康でまだまだ社会のために働ける人は沢山出来来る筈である。

こういう、元気な御年寄りを、有効に編成し、何時までも自立して暮らせる社会構想こそ、此れから始めてゆかねばいけない高齢者事業の筈である。



”臭いものを蓋をする!”的な発想を止めて、高齢者が知恵を出し合い、自分達の能力を十二分に発揮出来る社会体制を造る事が必要となっています。



一つ提案したい事は、健康な高齢者自身による、「高齢者村の建設」です。

資金と、若い人材を提供してもらえば、色々面白い企画が出来ると思います。