犯罪被害者は、犯人の死刑を望んでいるか?

原田正治さんが、自らの体験を語りつつ、犯罪被害者としての意見を述べられている。4日付けのA新聞では、犯罪被害者をして一様に犯人の死刑を願っているとする考え方に異論を述べられています。



今から20年以上前に、彼の弟さんは、保険金目的で殺害された。其の犯人たる”長谷川敏彦君”が、死刑を施行されてから、3年が経過している。

何時も犯人の事を原田さんは、”君”呼びしている。人からよく尋ねられるという。「なぜ、自分の肉親を殺した相手を君呼びするのか?」と。

そこには、原田さんの弟を失った苦しみの経験からたどり着いた考え方が在った。事件当初は、普通の被害者と同様に犯人に対する高まる憎しみから、刑の極刑を願っていた。しかし10年ほど経過する中で、死刑制度に対して、自分が殆ど無知な事を知る。犯人に対しても、直接在って問い正したい気持ちが高まった。そして、始めて長谷川氏と面会し、「申し訳ありませんでした」とお詫びの言葉を受ける。

彼は、こう語っている。「謝罪し、償おうとしている本人を眼のあたりにして始めて私は安堵し、癒されるような感覚を覚えた。」と。「許したのではない。だが、面会する事で、自分の心が解放される端緒を漸く掴んだような気がした」とも語っている。





人が殺人の罪を犯し、其の罪の償いをしようとするとき、果たしていかなる償いが可能なのか?

この問いを原田さんは自らに何度も問いかけ、漸く、一つの答えとして、「如何したら良いのか、誰にも判らないが、其の人なりに、償おうとする思いを実践していく姿を見て、被害者の自分達は、癒されてゆくのではないか?」と考えるようになる。

人は、生きてこそ、償いを続ける事が出来る。その意味では、死刑というものは、あまりにも短絡過ぎる、と原田さんは結論付ける。「少なくとも、私は、死刑が執行されたことで、心が楽になるどころか、再生への足がかりを失う事になった」と述べられている。



今後の犯罪被害者に対する救済措置として、「犯罪被害者等基本法」では、未だきちんと位置づけられていない権利として、刑の確定した犯人への面会する権利を持たせるべきであると原田さんは要望されている。

これは、現行法律では、刑の確定後に、犯人との面会が不可能なままになっている事から云われている。結果的には、被害者の意見が、犯罪者に対する刑の重量化が取り沙汰され、こうした決めつけから、被害者の家族は苦しんでいることも述べられている。



必要な措置は、犯罪者が、心から、自ら犯した犯罪を詫びて、死ぬまで其の償いの行為を継続して自らの罪の責任を取ってゆく事にある。

繰り返す事になるが、何が、償いであるのかは、誰にも分からないし、亡くなってしまった被害者が生き返る事もない。しかし、犯行により亡くなった人に対する償いの気持ちというものは、人間である限りもち続ける事が出来る筈である。何がしかの形で、(例えば、償いの文章を書くとか、絵を書くとか色々あるだろう。)罪の償いを一生かけて行うことにより、被害者と其の家族に対するお詫びの気持ちは伝わる筈だと思う。・・・いつか、(雪が解けてゆくように)、憎しみの思いが解けてゆくなら、それは立場の違いを超えた人として、お互いが理解しあってゆく手立てとなってゆくはずである。



最後に、原田さんは云われている。「死刑により、問題が解決するものはない。犯罪被害者として、私は、死刑の代わりに終身刑を導入して欲しい。そして、遺族に面会の道を開くような制度改革をして欲しい」



日本では、年に何件かの死刑執行が行われている。

既に、死刑が確定して、刑が執行されていない受刑者が相当数存在していることも事実です。

死刑の執行により、何が達成され何が失われるのかを、私達ももう一度考えてゆく必要が在ると思います。刑罰を重量化すれば、犯罪が減ると云う幻想をもつべきではないと思います。