救えたはずの数百万人の命の重みを知る。

60回目の戦争終結(敗北)の記念日が来ました。・・・当時、命からがら生き延びた体験を持つ方々が、段々少なくなって来ています。一方、戦争の悲惨な状況を知らない世代がどんどん増えて、戦争体験の風化の危惧が叫ばれています。・・・勿論、戦争を知らない事は、幸せではあります。しかし、当時の辛く悲しい戦争の体験が、忘れられてゆくことには危機感を感じておられる人も多いのです。せめて、今日の60年の平和と繁栄が、何百万人の尊い命の犠牲の上に立てられたものであることは、忘れてはならないと思います。・・・そんな思いで、今日、自分は、日記を書いたのですが(daialy参照)14日のA新聞社説でも、自分と思いを同じくした内容の社説が書かれていました。「何故戦争を続けたのか」少し、その内容を噛み締めて見たいと思います。



まず、この戦争で亡くなった310万と言われる日本の戦死者。勿論、この死亡者の中には、近隣諸国や、連合国側の戦死者は入っておりません。きっと、双方を合わせると、其の倍以上の人達が、この戦争の犠牲となっていたことは疑いないでしょう。この数字に、ドイツや、ソ連・ヨーロッパの犠牲者をプラスすると、1500万から2000万人と言う、途方もない数の死者を数えることになると思う。

此れだけの犠牲を出して、人類は、何を得たのでしょうか?

文明は、膨大な軍事力を作り出し、人をして人を殲滅せんが為の近代兵器を多数創造しました。・・・しかし、其の破壊兵器を作って、結局は、地球上の殆どの地域で国家を相互に破壊し合う悲劇が演出された。失った物はあまりにも多く、得たものは、癒える事のない悲しみと、今も未だ消えない戦禍の痛みでした。





日本では、1944年から、45年にかけて、無意味な戦争の続行のために、若者は"特攻を強制”されて短い命と散り急ぎ、多くの都市では、空襲によって、人々が家や財産を焼かれ、はたまた友人・肉親達が焼夷弾によって焼死させられた。南方の戦場では、勝つ見込みのない肉弾戦を命じられ、国で待っている家族を尻目に命を粗末に戦い死んでいった。・・・なんで、此れが、お国のため、天皇の命令であろうか?死んで誰が喜ぶのか?・・・こんな疑問を、当時の人たちは、はさむ余裕すらなかったと推測する。亡くなっていった一人一人の兵士の心境を思うと、本当に遣り切れない想いが伝わってきます。ここまで、人々を悲惨な死へ追い遣った責任を、一体誰に問うたら良いのか?この責任は曖昧には出来まい。



当時、軍内部でも、44年頃から、この戦争はもう、勝ち目がない事を知っている人達が居たらしい。・・・しかし、腹立たしいことには、こうした意見を、自分の命をかけて天皇や、当時の大本営の責任者に意見を具申する者がいなかったことだ。

44年7月には、当時の東条内角は総辞職している。この時こそ、先を見越して、連合国との終戦(敗戦)和睦を進める好機であったのだ。ところが、当時の軍属達は、そうした国家の舵取りを放棄し、理不尽な戦争を突き進めた。・・・この結果、1年で約200万人という数の人達が、其の命を落としてゆく事となった。この責任は、(繰り返して言わしてもらうが!)果てしなく重い!

例えば、45年の2月に、近衛元首相は、天皇に対して、「敗北は、如何ながらもはや必死である」と戦争終結を促す提案をしていたと云われている。何故、ここで"無条件降伏をしなかったのか?

ボクシングで云えば、もはやダウン寸前で、勝ち目のない戦いの中で、セコンドが何時タオルを投げるのか?と同じことだったのです。次の戦いに向け、よりダメージを少なくするためには、早めの"ギブアップ"が必要であることは、明らかだった。



しかし、こうした提言が、何の効果もなく、当時の戦争遂行体制に影響を与えることが出来なかったわけである。

誰も、其の責任を取らない泥沼の戦況を継続した罪は重い。

爆撃と、核兵器を使った、米国から見て、其の責任を、国民が取らねばならない、と判断されるかもしれない。(だから、彼らは、未だに、日本への空襲と核兵器使用による殺戮の責任を取ろうとしない!これは、日本人として、許してはならないことなのだ。)

しかし、日本の当時の国民は、国家の戦争遂行に楯として協力させられただけなのだ。誰も反対できない体制を造られ、ストップが掛からない戦争を始めてしまった事の結末が、最後の1年間で被った空襲と被爆と、家族の死を日本国民に突き付けたのです。

こうして振り返ると、民主主義が崩壊して、軍部の独裁が確立した地点で、既に、こうした悲惨な終結のストーリーは予告されていたのかもしれない・・・。此れを警告し、国民に警鐘をならすことがなされなかった。



この戦争から何を学ぶか?沢山の教訓を含んでいると思いますが、私は、一つ、どんな時でも、間違いを非として主張する勇気を残してゆきたいと思います。

当時の日本には、戦争の終結を勇断する決意が、時の指導者と政治家に欠如していた。それにより、200万の人の命が失われた。このことを、心に覚える事が、最大の今日(8月15日)の記念日に寄せた教訓であると思います。