「原因確率」の見直しは当然。むしろ遅すぎる。

先日の報道によると、原爆症の認定基準を新たに見直す与党プロジェクトチーム(座長河村健夫・元文部大臣)が、現在の制度の根幹となっている「原因確率」基準を見直すことを決めたそうです。



この悪評高い制度は、長年被爆者の認定問題に於いて、後遺症に苦しむ人たちの認定の際に、大きな障害となり、現実に後遺症に苦しみ苦痛を追っているにもかかわらず、審査において除外されたり、却下され、必要な治療と補償から外され続けてきたことは明らかです。



原爆投下から62年、未だに日本政府は、全ての原爆被災者の救済を進めるどころか、責任転換や「自己責任論」による国の責任の放棄を続けてきた。



関係者からは、厳しい批判が続出し、被爆者団体からは日夜切々とした抗議が届けられているにも拘らず、現実には現在に至るまで、問題を先延ばしにしてきた責任は重い。



今回、ようやくPTにより、現行制度の廃止を結論付けたことは、一定の評価は出来るが、果たしてこの内容が細部にわたって被爆者保護と救済の観点から見直されているのかどうか?しっかりと見届ける必要がある。



何故これまで再三被爆者から様々な抗議を受けながらも、現行「原因確率」論を振りかざして被災者を切り捨ててきたのか?その責任は厳しく問われなければならない。



日本政府は、被爆者全体の中に占める外国人被爆者に対しても冷たい対応を一貫して取り続けてきたことは承知のことです。

今回の見直しは、「原因確率」を基本とする現行基準の見直しであるならば、被爆者への補償問題全体にかかわる付帯保障に関しても総合的に改善の目を当てる内容とすべきです。



また保障に関しては、原爆投下責任の米国に対しても、人権保護の観点から財政的な補償と救済金拠出の要求が出て当然だと思う。



・・・原爆被災者は、高齢化し、どんどん死亡する人が増え、当時の体験を語れる人が貴重な証言者として今後も積極的な情報発信をしてもらいたい。

こうした体験は、言葉で語られない限り、忘れてしまうものです。

原爆体験、戦争体験を「平和文化」として残していくことこそ、次世代での平和な対外関係確立の礎となるでしょう。



原爆の恐怖と、悲惨さを、後世の世代に確実につなげるためにも、原爆症認定基準を早期に是正すべきであると考えます。