怖い、不思議、が入り乱れる現世の錯乱が・・・

長崎で、猟銃を乱射して、二人を殺害し、自分も頭をぶち抜いて死んだ37歳の男、まだ不明なことが多いけど、怖いと不思議が混ざり合わさったような事件ですね。



被害にあわれた26歳の女性と、30代の漁師さんご冥福を祈りたい。



何で、あそこまで切れる必要があるのか?もう、死んでしまった当事者に問い質すことが出来ないけど、報道によると、かってカトリックの教会に通う、敬虔な信者の子供だったことが分かっています。



すでに信者としては10年以上活動していないので、キリスト教徒とは言えないけれど、そんな家庭環境にあった男が、なぜ無差別殺人を実行する暴漢に変身してしまったのか?そこが分からない。



例えば、熱烈な宗教信者だとか政治信念を持つ者が、その信念に基づいて行動する…そんなストーリーならまだ理解が可能ですが、今回の事件は、いったい何が引き金になったのか?



大体、猟銃3丁、空気銃1丁を登録所持していたと言われているけど、警察は何故それを認めたのだろう。



理由がはっきりしない、こうした銃砲の所持に対しては、もっと厳しい制限が加えられても良いのじゃない?



普通の社会生活をする中では、こうした銃器を持つ必要はないはずです。

特に日本社会では、自分で自分を守る必要は、銃所有という形では必要ありません。不特定の輩が、銃を持って押し入る可能性があり、それを撃退するため、家族を守る理由で銃を所持する…そんな理由付は、どう考えても日本社会ではおかしい理屈でしょ?




隣のおじさんが、銃を構えて玄関で立っていたら…それは西部劇の撮影か?映画の1シーンとしては現実にありえるストーリーですが、実際の社会生活の中でそれが行われたら、アンビリーバブルな警察の取り締まり事項になる筈です。



一体、日本社会にどれだけの銃が普及しているのでしょうか



登録されている銃砲以外にも、やくざ屋さんや無法に所持されている銃砲、それから改造されて制作されているマニアックな銃器もあるでしょう。



そういった危険銃砲を、今一度見直してどうするのか?国民の中で論議した方がいいと思う。



国民の、支配者に対する抵抗権の保障・担保として、そうした自衛のための武器を所持する権利がある、と認識する人もいる筈です。



国家や警察が、必ずしも市民生活を守り、外的な襲撃から個人の生活を守ってくれるとは限らない限り、こうした自衛武装論は正当性を持つ。



ところが、こうした自衛の為の武器所持が、いつの間にか他人を侵略し隣の人の庭まで荒らす争いの引き金となる・・・こうした歴史的な経験を、私たちは嫌というほど学んできた。

自分を守るための軍事的な武器使用が、いつの間にか隣国の生存権、既得権を侵害する行動に繋がっていた・・・こうした歴史が、何千年、何万年も経験してきていることをしっかり歴史から学ぶ必要があるのです。 近年、原子爆弾を開発した人間社会では、ひとたび国と国とが核戦争をおっぱじめたら、次は地球の終末が訪れるかも知れない

こうした危険性は、もはや漫画の中の話と言うよりも現実の話として日々進化しているのが現実です。



ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキです。



身近な問題としては、人と人とが憎み合わず、互いに相手を尊重した暮らしを積み上げることがどんなに大切か?を子供たちに伝えていく必要があります。



ひょっとすれば、現在の地球社会は、存続の危機に瀕していて、もし、この重大な曲がり角で人類が自分たちの進路を誤れば、もう地球の未来は保障されないのかも・・・



他人事として考えている人が多すぎる



もう、私たちに残されている時間は、そう多くないかもしれないのに。



環境問題一つとっても、「京都議定書」のことでこんなに議論されてはいるけど、約束事を実行するのにこんなにも時間がかかる。大きな国ほど危機意識が薄い。



専門家の意見では、こんな議論をしていてはもはや手遅れ、10年20年後には大変なことに行き着くかも・・・と危機意識を持っている人達が沢山いる。



戦争の危機も、相変わらず世界のあちこちで種火がくすぶり、一つ間違えば、大国同士の参加する核戦争へつながる可能性が囁かれているのが現実です。



ああ、何だか、こんなこと考えていると、「自分たちの生活のこと、お金のことなど遣り繰りを考えていること」が、とっても小さなことにも思えてくるけど・・・



ただ、あくせく毎日の仕事に明け暮れていると、大切なことをどんどん見落としているような気がする今日この頃です。



身近な家族や友人と、こうした話を、一度ゆっくり焦らずしてみてはいかがでしょう?

(最後まで読んで下さり、御付き合い有難う@^^)/~~~