人間の頭の切れる瞬間

報道によると、先日、ニートの暴漢が無差別に人を襲い、2人を殺害、何人もの人に重軽傷を負わせる事件が発生した。
どこにでも居るような若者だが、なぜ彼はこのような殺傷事件を起こしたのだろう。
警察を翻弄するような電話をかわしながら、ゲーム感覚でナイフを準備し殺傷事件に踏み込んだ彼は、いったい何に興奮していたのか?何の為に人を切りつけたのか?それは正しい事だったのか?

人が切れるときはどういう精神状態なのか?
人間が育つ家庭で、やって良いことと悪いこと、倫理というものの価値観は多かれ少なかれ育った環境から培われている筈です。
ところが、人それぞれ環境が異なり、精神状態の安定性というものは優劣がある。・・・恐らく、犯罪を犯した彼の家庭環境はかなりの問題がある筈だと想像できる。でも、それは今回の事件とはある程度切り離す必要がある。確かに、犯罪者を育てる土壌があったことは事実だとしても、そうした環境に置かれた者が皆犯罪を犯すことにはならない。おそらく彼の親は、今回の事件を通じて、一番精神的な打撃を受けたのではないかと思う。犯罪を犯した本人は、いつか自分の両親の悲しみを知った時、どんなに自分は大きな過ちを犯したのかを知る時が来ると思う。・・・自分を愛情を持って育ててくれた環境があったことと、それを自覚しなかった自分を知る時、何と自分は愚かな犯罪を起こしたかを知るだろう。・・・または、彼はそうした真理を知ることなく極刑の露となってしまうかもしれない。
ここで言っておかねばならない。犯罪者を極刑に処しても、彼を強制的に死刑という肉体的死に追い詰めることは出来ても、彼に自分の犯した行為の過ちを知らしめることにはならない。
社会的な法廷がやらねばならないことは、犯罪者に対する断罪をすることであっても、罪を犯した人が自分の行為の意味をとことん見つめることにはつながらない。本来、法というものは、社会的な犯罪性を客観的に検証し、今後見つめていく必要がある真実を明るみに出すものであると思う。その意味では、罪を犯した者が本当に自分の罪を振り返り、誤りを知り、被害者の思いと悔しさを反芻することに意味があると思う。

あふれ出ている社会面には、切れる若者の姿が極端に誇張されていた。第2第3の犯罪者がいくらでもこの社会には溢れているかのような不安に駆られるのは私だけではないだろう。
・・・切れるということを考えれば、人は誰もおかれ少なかれ切れる場面を経験する。・・・ムカつくような気分になる時、自分でも抑えることが出来ないような態度をとったりする。
確かに、そういう態度をとることが殆どない人もいるだろうが、逆に、しょっちゅうそうしたイライラした人間的感情をあらわにする人も居るだろう。

人が大人になり、社会生活を営む時、これはやってはならないことというものがあり、その一線を超えると犯罪者という烙印を押され、強制的な隔離管理に置かれることとなる。

いつの世になってもこうした犯罪者は零にはならないのかもしれないが、犯罪を自分の問題としてとらえる場合、やはりその心理を見つめる必要がある。犯罪行為に走るまでに、それを実行しようか?あるいは止めようか等様々な葛藤がその人間の頭脳で起こっていた筈です。
だとするならば、彼自身が意識した行為に対してそれを押しとどめる判断力を身に着けていたなら、彼は犯罪者には成らなかった筈です。つまり犯罪を想像し、それを期待する思いはあっても、それを実行することとはうんれいの差があるということです。・・・例えば、人は誰かに対して「お前なんか死んじまえ」と思ったとしてもそれは殺人罪にはならず殺人予備罪にもならない。人それぞれの意識の内部での想像に対しては、法的な規制は入る余地がないのです。本質的に、想像の世界はどこまで行っても自由な世界です。しかし、現実との接点を誤って付けるとき、とんでもない犯罪行為が成立する。・・・アニメや映画の中でいくら殺人が行われていたとしてもそれは作り話であり想像の中だけの出来事ですが、一旦それを実際に実行する試みが行われてしまうと、凶悪な犯罪行為が展開されることになりかねない。
従って思うのです。想像の世界は確かに自由な領域ではあるが、いったん歯止めのない暴力性が培養されてしまうと、何時どういう形でそれが現実の世界に伝染しないと誰が言えるだろうか?
凶器の犯罪者が殺傷した被害者は、まさか自分がこうした事件で虫けらの如くに命を奪われてしまうなどとは思ってもいなかったことでしょう。犯罪者の本人もまた、殺すのは誰でもよかったと話していたりしている。それならなぜ自分自らを殺戮することなく、人の命を奪うのか?
私は思うのです。自殺を美化する気は来列記しもないのですが、今回のような無差別殺傷行為と比較した場合、自ら自殺する人たちの方がまともで人間らしい?
しかし、その論理もよく分からない。自分の命は、自分一人のものではないことを自殺する人たちは学ぼうとはしなかった。自分を殺す権利もまた、自分の中にはないんだという謙虚さがない。その意味で自殺者たちは皆傲慢であると思う。

ああ思うのです。殺人という行為に走るまでもなく、人は皆死んでいくものです。おぎゃーと生まれてから、人はいつか迎える死に向かってずっと歩いて行くものなのです。
そうであるなら、与えられた人生を全うして人と協力しながら自分が果たせる役割を果たし人知れず微笑みながら寿命を全うすることの方が良いのではないか?

おかしな競争社会に変質している現在の社会体制を、もう一度人間的なものに作り替える必要性があると考えます。この歪んでしまった社会構造を、ほぐれた糸を1本1本もどしていくような地道な見直しと改革の必要性があるように思えてなりません。