『靖国YASUKUNI』を観て感じたこと。

no-mu2008-05-10

http://www.yasukuni-movie.com/contents/directors.html

あいにく雨になったが大阪の初日、第7芸術劇場での初回公演に足を運びました。
9時前には映画館についたが、すでに初回の座席が売り切れており、立ち見または別の部屋でのプロジェクター放映なら見れるがそれ以外は次の放映時間まで待たねばならないとの説明。時間をつぶしたくなかったので立ち見の入場ということで館内へ。96席ある座席はなるほど人で埋もれており、後方と左右の壁に分かれて立ち見客が約30人ほど陣取った。
まだ開演20分くらいは前と言うのにこの盛況ぶり。館内にはトランシーバーを持つ数人の係(整理員)の姿も見られ、マスコミで騒がれての公開がこれだけの人を呼んでいることが頷ける。
館内の6割くらいは男性、それも60代を超していると思われる方が多く見られた。しかし、若い男女の姿もちらほら見られるので、それほどお世代的に偏った集客とは思えない。

エレベーター出入り口付近では報道関係の姿も何人か見られ、映画を観る人への取材も始まっているようでした。

さて、映画が始まり、123分の間立ったままの足が棒になり身体的に辛かったが、それでも観にきた甲斐はあった。

私の感想ポイントを以下にあげておきたい。

李纓が10年をかけて描こうとしたものが何であるのか?その回答は簡単には答えられそうにないが、映画の公式サイトで彼は次のように語っている。
1・「いまもなお世界において、戦争という亡霊が人類に接近する歩みを止めた事はない。この映画は、私がこの亡霊に対して、 靖国神社という玄関を通して、十年もの歳月をかけた記録である。」と。
彼のテーマはかって日本が侵した戦争という国家犯罪に対して、現存する靖国神社ののぞき窓から記憶と現状を取材することにあった。目的をまとめる為に神社ゆかりの刀士を取材し靖国にまつわる奥の人々の顔と行動を撮影した。もちろんこの中には右翼賛同者もいるし、靖国神社の合祀に反対する人たちも登場している。
監督の取材姿勢は一貫している。登場人物の発言を記録しつつ、映画編集者としての見解は後ろに引いて決して観る者に考え方を強制してはいないこと。
この点は、昨今の上映中止問題を考えるうえでは非常に重要な観点だと思う。

李纓監督は、安っぽい思想性を押し付けるような映画を製作するつもりはなかったことが良く判る。この点を見抜けないようではもはや論議にはならない。

2・登場した人物で印象深かったのは、かっての寺の住職が赤紙により戦争に駆り出され戦死した・・・その息子である住職が靖国神社に対して合祀を取りやめるように詰め寄る場面です。仏の御教えを説く職業の坊さん達まで駆り出されてかっての戦争は人々を戦争舞台に引きづり出した。それは考えられないような現実であったことだろう。戦いの中で戦死した住職たる父親の靖国合祀を息子さんは許すことが出来ない。しかし神社は家族の意思に関係なく、死亡した戦闘員全ての魂を英霊として祭ることになっていると説明する。・・・つまり一度戦死した兵士の魂までも国家が奪い去り家族のもとに一切返却されることがないという。

この訴えと同じことが台湾での現地住民徴兵により日本軍として戦闘に駆り出され死亡した人々についても、一切その合祀を取り止めそれぞれの国に返すことがないという。
台湾の現地民族の多くが、昔ながらの生活居住区を日本軍に剥奪され、それには向かうものは厳しく取り締まられ日本の植民地化に同意する者は軍隊に合流させられた。・・・こうした経過で戦死した者の魂までを、未だに靖国神社は「解放する」ことを拒否している現実がある。

・・・すでに7回の抗議行動を続けているという台湾の女性運動家の抗議の姿と訴えは、見る者の胸を大きく揺るがす迫力がある。
また、神社での戦後60年式典に抗議行動を行った二人の男性が、主催者側と見られる男たちにより強制排除され暴力をふるわれる場面も映し出されていたが、その時に浴びせられていた言葉が脳裏に残る・・・「中国人は出ていけ。ここはお前たちが来るところではない、神社から出ていけ、自分の国へ帰れ!」何度も繰り返してこう叫ばれこずき回されて二人の若者は会場から追放された。それでも、男たちは必死で叫ぶ、「日本軍は南京で何をしたんだ。アジアのどれだけの住民を殺戮した?こんな戦争を美化することは出来ない!」と。
・・・結局、警察に強制的に保護?される形で文字通り現場から拉致されていくわけですが、一切の反対意見を暴力で封じ込めようとする人たちが、まだこの靖国の界隈には沢山居ることを知り、複雑な心境を持たざるを得なかった。

3・この映画を、観た人たちがどう判断して評価するのか?それは各々の自由であろう。
しかし、映画を自由に制作し、その機会を作ることに対し、もし社会的な圧力がかけられるとすればそれは表現の自由が揺らぐ問題です。
また、上映に際し、映画館側が社会的な圧力に屈して中止行動を選択するとすれば、自らの映画を人々に提供する役割自体を否定していることに他ならない。
一部の人たちが問題視し、その内容について意見することは自由としても、それに左右されて上映そのものは影響を受けてはならない筈です。まさにこの点が、映画を第7番目の芸術たらしめるものである筈なのだから。

今回、大阪でも順調な靖国上映が始まったことは良かったと思う。少しでも多くの人が今回の映画を見、李纓監督の作品に触れ、映画靖国が投げかけている問題の深い問いかけを考えるきっかけになればと思う。