今日は好きなこと、云わせてもらいまーす。

no-mu2008-07-17


確かに、ケアプランというものは、何の為のサービス支援なのかをそれぞれ理由ずけすることにより各自治体の承認を受けることになるのですが、アセスメントっていうのは理由付ですよね。
人間の生活はすべて理由付されたものでしょうか?

結構そこらに起こっていることは、理由がないけれど、そうして欲しい、意味をはっきり言えないけれど、それが快適である事って結構人間生活では多いと思う。人間的という言葉があるけど、理由がなければ人間的とは言えないなんて言ったら、おかしいのと違いますか?

つまり、人間の生活にはわけもなく安心できる暮らし方の部分が結構沢山あるのです。

この事を典型的に説明することが散歩です。
人間の生活の中で、何かの目的ではないけれど、マイペースで歩いていたい、歩くことを楽しむ部分がある。目の前を通り過ぎる何気ない景色、顔見知りの人々の顔…そうした風景を見ることによりその街に生きる自分を感じ取り、身近な人々を肌で感じる・・・
こうした散歩が、元気なうちは好きに出来ますが、障害を持ち自分の足で歩けなくなれば人に連れて行ってもらわねばならなくなります。
障害サービスでは認められる移動介助が、介護サービスとなると、現在の解釈では認められないのです。
「何でや?」と自治体に詰め寄る人も今はいません。
昔は居たと思う。・・・でも、何で文句言う人が居なくなったんだろう。

皆、財政も大変やから、しようがないと諦めているんでしょうか?
散歩は、ボランティアや家族がやれば良いというけど、どちらも居ない人はどうなるんですか?
散歩は、障害や高齢で歩けない人にとって、どうでも良いサービスではなく、外界の空気を吸い、地域の自然を感じ取り、近所の人たちと話を交わす大事な時間だと思います。決してどうでもいい、切り捨てても良いものではないと私は考えます。一人で外に出られないから、ヘルパーなりの支援を必要としているのです。

現在の日本の介護保険制度は、どこか頑なな穴臭い制度に変貌しようとしています。
こんな制度を守るためにケアマネジャーが日夜駆り出され、けちけち財政防衛隊の1員に加えられてしまっていることは、全然名誉なことでもなくましてや、介護保険制度の要であるという念仏が、またも復活していることにいら立ちを覚えます。(@_@;)

生活支援のことなのに、少しテーマがずれてしまいました。済みません。
生活支援で禁じられている事って相当ありますよね。
逆に、出来ることを挙げた方が早い位です。
介護保険で出来ることがどんどん狭められ、あと10年すれば、一体生活支援で何が出来るようになるのか?それとも何にも出来なくなるの?

そうなると、年寄りの生活は、昔の姨捨山に捨てる様に、「好きなように自分らで過ごしな、」ということに何のかな?
そりゃーあんまりだということで、「年寄り党」が結成され、国会議員を送り込むことになるんでしょうか?
でも私はもっと過激なこと考えています。

介護保険開始8年です。
どんどん変質を遂げつつ、介護保険はどこに流れ着くのでしょうか?

私は思います。

いっそ、お年寄りの過激な筵デモが巻き起こるんじゃないでしょうか?

口々にお年寄りたちが叫びます。

「みんな、年をとれば、今まで出来ることが出来なくなる。・・・そして、その時判りまっせ。何で介護保険は役に立たないのか?・・・わしらがやって欲しい事を、何で素直にやってくれへんね?理屈ばかりこねよって、あほんだら。
理由付なんてくそくらいや。「汗ツウメンツ」[m:75]なんて糞くらえですわ!

わしらは、素直に、言うこと聞いてくれる制度が欲しいんや!
そんなに無理な時間を制約しないから、一度、それぞれのお年寄りがやって欲しい事なんでも叶えるサービスをしてもらえんじゃろうか?
勿論、犯罪は駄目じゃけど、法律に触れない程度なら、わしらの無理を聞いてくれる・・・そんなサービスがあってもええんちゃうか?」
ほんのちょっと、わしらに尽してくれたら、それで満足やねん」

・・・トホホ、お年寄りたちの愚痴が、又わんさか聞こえてきそうです。

 爺ちゃん婆ちゃんの、ささやかな希望さえ素直にかなえてあげることが出来ないような介護なんて、くそくらえですわ。

くそ、酒も飲んでないのに、腹立ってどうしようもないけん終わりです。


このくだりは、自分のmixiのコミュ欄に記載した愚痴を、転載させてもらいました。・・・こんな放言を、最後まで読んで下さりありがとさんです。