過去・現在・未来をつなぐ人間絵巻「夢のまにまに」をみて

no-mu2008-12-02

第7芸術劇場で上映中の「夢のまにまに」を見てきました。平日の昼間だったので、観客は約2・30人といったところ。年齢層は年金を貰っているだろうと思われる人たちが殆どです。
この映画、先日新聞でも取り扱われているとあって結構遠方から見に来ておられる人も居られるらしい。
年内はずーと第7劇場で上映されているが、この映画の筋については、以下のサイトで確認願います。
http://yumemani.com/intro.html
長門裕之演ずる映画の学院長が、有馬稲子演ずる障がいを持った妻と共に暮らしながら学院のある青年と手紙のやり取りをするようになる。その青年は、初めは期待された好青年であったが、しだいに心の病に陥り勉学の道を見失い退学してやがて人生を彷徨うようになる。井上芳雄扮するこの若者と手紙を通して心の会話を続けつつ、長門扮する木室はは何とかこの青年に希望を持って生きてもらいたいという希望をともし続けた。・・・しかし、木室の思いもむなしく青年はある3月の末日若くして亡くなってしまう。母親の桃井かおりから手紙を受け取り、彼は男泣きをする。「何故、若者が自ら命を絶つのか?今も63年前の昔も、こうした悲しみが繰り返されるが、おれは何と無力な存在だことか…」そんな風に呟いているように思う。

国民が戦争に動員されている世の中では、死ぬことが美化されて若い人たちがどんどんお国のためと称して軍隊に取られ命をなくしていった。
戦争で命を亡くした家族は、潔い死に方をしたと褒められ、遺族年金を支給されて国家の為に貢献したと言われるが、果たして人一人の命が購われる様な意味があったのかどうか?誰が証明出来るであろうか?
お互いに名前も死なぬ、国を違えているだけの軍人たちはもともと共に肉親でいるわけでも何でもない。
国家によって、互いに命をかけて戦う運命に定められただけのことであって、そうした戦いにどんな意味があるのかをだれも責任を持って証明出来ない。
何十万、何百万人もの命が近代の戦争により命を落としていった。特に非戦闘員の老若男女がお構いなしに命を奪われてしまったが、こうした殺戮に対する国際裁判は誰もやろうとはしない。…死んでいった人たち、傷ついた人たちの悲しみの深さを、私たちはどれほど知っているのか?知ろうとしているのだろうか?

戦争を知らない世代が、生まれてからもう63年となり、戦争を知っている世代がどんどん残り少なくなる。戦争をしない憲法が出来たのに、戦争がいつでも可能な軍隊がどんどん巨大化し、やがて核武装も可能な視野に入れようとしている現実がある。平和を守ろうと叫ぶ人たちもいるにはいるが、しだいに軍事力を必要悪と考える人たちが増えていることを危惧する昨今です。

この映画では、亡くなって逝った人々に対する深い愛情が散りばめられています。主人公木室が戦時中の友を思い出し、それぞれの生きようと必死に触れ合った思い出を紡ぎつつ、年老いても妻をかばいながら生きていこうとする姿が描かれているのです。

果たして監督が描きたかった夢とは何であろうか?
それぞれ、描いている夢は異なっているかもしれないが、人間が持っている気持は変わらずどんな時代でも熱いものが流れていることを語りかけているようにも思える。

この映画は、介護という点では、切り口は少し物足りないものになっている。介護するものとされるものとの微妙な気持ちのずれと矛盾を取り上げてはいるが、そこから新しい問題点や着眼点を提起しているものは見当たらない。一抹の物足りなさを感じつつ、何故か安心感のような安堵をおぼえたのは私だけであろうか?
人間長門裕之がかもちだす味がそうした奥深さをもたらしているのかもしれないが、きっとこれからどんどんこうした老いや介護を取り上げた映画は作られていくと思う。

多くの人に見て頂きたい作品であることは間違いありませんね。

大阪城公園の中でこんな不思議な樹の谷間を体験したんですよ。

こんなおいしい空気を吸うのは久しぶりです。

鮮やかなオレンジ色の花が咲いていました。

落ち葉の芸術、ここにあり。

私が写している噴水の斜め後ろから太陽が照っており、そこに虹が出来ているのが分かりますか?自然の芸術ですね?