梅雨明け宣言が無くとも既に季節は夏?

腑に落ちないことがあります。多くの方が抱いている思いですが、気象庁はまだ宣言を出しません。・・・確かに、じめじめした湿度の高い日もありますが、真夏の太陽が「かっ」と照りつける日中の日差しもあり、きっと夏休みになった子供達は地域のプールへどっと押し寄せている事でしょう。

今日も、子供達の歓声と水しぶきで賑わう事になるでしょうが、夏の風物はやっぱり蝉。
6時頃に朝顔の水やりをしていると、30分頃から合唱が始まりました。・・・一斉に鳴きだしたかと思うと、またとたんに静寂があり、少し間を持たせてまた鳴く・・・此はほんとに合唱しているんだと実感しました。蝉たちが、仲間と一緒に思い切り鳴いているのはどういう意味があるのでしょう?長い間の地中の生活と、短い地上の暮らし・・・そうした生き物としての最後の叫びを上げているのですね。

この蝉の合唱は、聞き覚えがあり、昔幼い頃から大人に育つまで何度も季節が巡ると聞いている音です。だから、毎年新鮮に聞こえもするが懐かしくもある声ですね。・・・若い頃は、まだ朝の熟睡過程にまどろんでいる状態の中でそれを煩く感じた事もあった。
しかし、今では蝉の声が貴重な季節の音として感じる事が出来る。・・・今を精一杯に鳴いている蝉たちは、恐らく感性というものはないだろう。でも、それを人間が聞くと、感情移入をする。

例えば、春ホトトギスの声を聞けば、誰でもあの透き通るような特徴のある鳴き方に心を奪われるだろう。確か鳴いているのは雄だったと思うが、自分の背中にもし羽を持っていたらその側に飛んでいきたい気持ちになる。
カラスたちが、朝「ぎゃぁぎゃぁ」騒ぐ事がある。あの声を聞いて、親しみを感じる人は少ないだろうが、もずくの「きぃきぃ」という声は煩いとは思わない。また雀たちが「チュンチュン」と木の枝に止ってあたかも井戸端会議をしているように鳴いている声には、耳元での心地よささえ感ずるものだ。ウシガエルのでかい声を一日中聞かされたら、誰でも煩いはずですが、それを騒音とは呼ばないでしょう。・・・こうして、生き物たちの鳴き声は人間社会の中で人の暮らしといつも一体となって響いている。
日本のように、春夏秋冬が歩くには、世界でも希な方だろう。
巡ってくる季節の中で、それぞれの季節に相応しい風物、環境というものがある。そして、そこに暮らす人々がいる。
ところが、そうした自然環境の音と、自動車などの音とは本質的に違いがある。やはり車のエンジンの音、走行する音は騒音です。一定の音量ならばやむを得ないとして、その限度を超えてしまうと人間の生活に大きなストレスを与えてしまう事となる。

確かに、熱帯地方の常に干ばつで苦しんでいる国で暮らす人々に比べれば我々の生活は恵まれている。また、1年の大半を極寒の中で暮らすエスキモーの人達から比べれば遙かに日本は暮らしやすい事だろう。

でも、だからといって日本の国に暮らす人間が幸せであるとは限らない。
気候がどれだけ温暖で作物が育てやすく人間の寿命が長くとも、それで人としての生活が幸せになるかどうか?は別の尺度を持ってこなければならない。

劣悪な生活環境にあっても、賢明に知恵を尽くし互いの協力関係を築く事により暮らしを築いている人達が沢山いる。そうした人達から、人間の繋がりを学ぶ事が出来る。

外国人労働者に対する日本の対応を見ていると、人権問題において日本はつくづく後進国だと痛感する。
日本で暮らそうとする外国籍の人達をどうして不利益な法律で縛り、日本の社会で差別をするのか?必要なときだけ低賃金の労働力としてこき使い、必要なくなれば自分の国に帰れ、こうした身勝手な日本の企業の在り方は決して許してはいけないと思う。
世界のどこの国籍の者であろうと、日本で真面目に働いて暮らそうと思う者があれば彼らを受け入れ、安心して働ける労働条件作りに協力をする。そうした体制作りをするのが当然の事だと思う。こうした受け入れの出来る国にする事が、逆に日本人が世界の国々に出て行くときの、保証となり安全となる。
・・・こんな事は、何も難しい事ではない。でも、こうした当たり前のセーフティーネットが日本では未だ出来上がってはいない。此は残念な事だと思う。




この写真は、すさまじいバッタの食欲が伝わりますね。
これだけよってかかって食べ尽くされたら、さぞ朝顔も思い残す事はないでしょう。彼らは葉っぱならず花もきれいに食べ尽くしてしまいます。