夕時の交差点の隅で、その人はひざま付き頭を垂れていた・・・

大阪のにぎやかな交差点に差し掛かった私は、自転車を止めて信号が変わるのを待っていた。目の前が幹線なので、少々長い時間待たされる。同じように信号を待つ人々の表情を見たりあたりの様子を窺ったりして退屈しない興味を持った眼であたりを眺めていたが、ふと正面の横断歩道の隅で人が前屈みになりしゃがんでいるのに気がついた。

5時半を回っているから、12月の10日を過ぎると辺りは薄暗く寒い。なのに、しゃがみ込んでいる男性はしきりに手を前に置いている花束に手をやり涙ぐんでいるのが眼鏡越しに見えた。

私以外の信号を渡っていく自転車族の何人かが、その男性に目をやっているのが分かる。

「あ、悼む人なんだ!」静人さんと同じように、この交差点で亡くなったであろう人を供養しているんだということが判ったが、交差点を過ぎてからもその人や悔やまれている人がどんな人だったのか?気になって仕方がなかった。
悲しみを体全体で醸造しているかのように、その男性はずっと膝まづくようにしゃがんだ姿勢で今はもういない人を悼んでいたが、本当はそばによって、共に花を添えて寄り添ってみたい衝動に駆られた。・・・ちょうど椿の赤い花が歩道沿いに咲いている。その椿をもぎ取ってすぐに彼に届けに行きたい気持ちを、懸命に堪えながら職場に戻る自分がいる。

可笑しいね。
何故、自分に素直に行動しないのか?
人が悲しむとき、共に横で涙を流すことは自然な行為であるはずだ。それを静止しているのは、自分の中のどういう意識なんだろう。
人から見られるのが恥ずかしいわけではないし、道端の花を届ける行為が嫌なのでもない。

自分の中の普通であろうとする気持ちが邪魔をしている。
自分が何らかの既成服を脱ごうとする時、それを静止して元に戻そうと働く自分の中の常識と云う名の自制心が、心の底から貧しい自分を再生産しているように思えた。

もっと自由に、もっと思いのままに振る舞える自分がいたはずだ。
そういうのびのびとした感性を押しとどめている初老の自分。
これからは、私が私らしく行動できる そうした生き方を見つめていこう。
また、あの交差点で、ある人を悼んでいる人に出会ったら、迷うことなく共に横に座って手を合わして挨拶をしよう。
そう、何も言わなくても良い。ただ、少し頷いて微笑みを贈れる自分でありたい。そう思うんです。

このレリーフ、出来栄えは如何でしょう?
先日の日曜日に、家にあるものを組み合わせて作成したんです。
素になっている枝は、あのベランダのアサガオの枝です。
・・・我ながら、旨く活用できたかな?と得意です。(*^_^*)