栗城史多の挑戦に思う。

昨日、テレビで若手登山家=栗城さんの7サミット極限への挑戦を見ました。無酸素で危険な山頂まで冒険的なチャレンジを続ける栗城さんの姿をカメラは追う。自ら山頂を目指してビデオを撮り続けながら困難な登山を目指す生き方の中に、惹かれるものがある。

しかし、一歩間違えばそこには奈落のクレバスや崖が待ち構えており、命を落とす登山家は後を絶たない。
ましてや彼は無酸素登頂をスタイルとしており、一つ間違えば生命の危険が待ち構えている。無謀とも思われる彼のやり方には批判も多い。しかし、一つ一つ彼は登頂の成功を糧にしながら力をつけてきており、その挑戦の可能性をは多くの人に説得力を持ち始めていることも事実です。

ある意味では彼は幸運の持ち主であり、今まで無事登山を継続出来ていたのは単なる偶然にすぎないのかもしれない。

しかし、彼がここまで世界の山々の頂点を極めてこれたのは、彼の横に常に何人ものサポーター達がいたからだ。彼一人ではとても、難攻不落の山々を無酸素で極めることは無理であったことだろう。

確かに最初の成功は偶然と幸運が味方したのかもしれないが、その後の栗城を支えてきたのは、彼の挑戦を支えたい人々が集まってきたからだ。そのことを痛感させた直近の挑戦では、目指したエベレスト無酸素登頂を、8000mの途中で引き返す決断を促したスタッフのアドバイスがあったからこそ生きて生還することが出来た。
もし、冷静な判断力を損ない無謀な登頂を目指したならば、おそらく彼とその支援者たちの努力は実らず、悲劇的な結末を迎えることに行きついたかもしれない。
しかし、彼は無事引き返して一旦退散することの必要性を学んだ。
「命があって、無事自分がいるからこそ再び挑戦をすることが出来る」
戻る勇気を持つことの必要性を、彼もまた学んできたわけです。

また、極限の8000m級の山に登頂時遭難した登山家の死体に遭遇する場面がある。普通ならば、彼を下界に連れて帰ることを考えるのだが、彼には、心の中で冥福を祈ることしかできなかった。
その死体は、だれにも救出されることもなくおそらく何百年も放置され続けることでしょう。
この場面は、衝撃的でした。この地球上で、人が死んで葬られることもなく放置されざるを得ない場所が、ビデオを通じて茶の間で見ていること。これはどう考えても、大きなショックを受けました。

これからも挑戦するであろう冒険家の栗城さんへは、心をこめてチャレンジが成功することを念じておきたいが、そのためにも後退することの必要な場面が人生において多々あることを感じた。この教訓は、単なる登山の挿話に止まらない。
無事に戻れば、再び体力とパワーを取り戻して次のステップを踏みしめることが可能となる。
栗城さんのホームページには、多くの人が集まってくるという。初めは登山に興味がなかった人たちの中から、彼を応援する一員としてあらたに支援の輪に入る人達が増えている。
もはや彼一人のチャレンジと冒険ではなく、多くの人の希望と願いを背負って、彼の登山挑戦は今後も継続される。
彼の強靭なチャレンジ精神に勇気づけられ、人生の意味を学ぶ人がこれからも沢山続くでしょう。

・・・僕自身は、とても登山など出来る柄ではないが、彼の挑戦については、今後も注目をしていきたいと同時に、無事彼がエベレスト無酸素登山に成功することを祈りたい。

この樹は、樹齢400年以上の樹です。
樹木の中が空洞になって、今にも折れてしまいそうなのに、強風にもめげずまだしっかりと大地に立ち続けている。
この姿を、昔の人達は樹の神様として縄筵を巻いて拝んでいるのです。