日本の朝、奈良の朝・・・そして世界の朝が始まる。

65年前、米軍の徹底的な夜間空襲が東京を襲い、下町で暮らす人々老若男女を襲い焼けつくす作戦が強行された。

戦争だからこういう作戦が行われた事を正当化できるのか?
勝つためには、どういう軍事作戦を立てても許されるのか?
こうした疑問は、当然残る。
夜間空襲は、前年11月から約半年、東京一帯を106回襲ったとされており、その中で破壊された建物は、軍事施設を含めて民間住居を巻き込みすべて焼き尽くされる作戦が立てられたという。米軍の見解では日本の下町企業全体が当時の日本経済を支える役割を果たしていたからだと云う。
しかし、こうした見解がいかに非人間的な、一方的な見方であるかは今なら実証できる。たとえ、中小企業の経済構造における重要な構造的役割があるとしても、だからと云って民間人が多数生活する街全体を焼き尽くす作戦が認められるのか?この答えは、はっきりしている。

かろうじて、焼失を免れた建物もあると云うが、こうした「焼き尽くし作戦」の非人間性は、今なおあの時代の悲劇を我々に痛々しく訴えてくる。

米国人は必ず日本に問いかけてくる。
「だったはパールハーバーは許されるのか?
宣戦布告もなく、軍事攻撃をして攻撃殺傷した仕返しを、国家としてしているだけだ」「日本が攻撃したから、それに答えた、それは正当な軍事的反撃に過ぎない」と。
広島・長崎の原爆攻撃もそうだが、こうした空襲による民間人の犠牲は、大戦全体をまとめると相当な数を数えるだろう。
彼らは、殺傷されても誰にもその不当性を訴えるすべがなく、軍人たちのように恩給や戦後の補償を受ける事すらかなわない。
心に深い傷を受け、その生々しく痛々しい残虐な出来事をどう恨んだらよいのかさえ、答えが出てこない。

世の中には、こうした不当な仕打ちが沢山残されており、油断すれば国家はこうした不条理を救済するどころか再生産すらをする。
本来国家は、人々の安全を守り、生活を支援するために機能すべきものだろう。

ところが、歴史は、逆に不条理な犠牲を人々に強いる。
それも、普通の生活を営んでいる人々の真ん中にこうした不幸を投げ入れる。
空襲で殺された人々に一体どういう罪があったのか?
米軍は、下町の当時の日本人を憎んで爆弾や焼夷弾を打ち込んだのか?
いやそうではない。彼らは、米国の対日本軍事作戦を成功させて戦いに勝つために、大統領が下す作戦に従って任務を遂行した。

戦争は、計り知れない犠牲と傷を残した。今なお、その痛みを日々噛みしめて生きている人が居る。

私たちは、65年前、こうした国民的な犠牲が強いられた歴史を決して忘れない。・・・だからこそ、戦争という最終的な手段が決して選択される事のない社会を作り上げていかなければならないと考えます。


今朝は、昨日までの冷え込んだ小雨交じりの天候から、一転して春の晴れ間が垣間見れる1人が期待できる明るい太陽が顔を見せていました。

植物たちも、一斉に生命活動を始めているようですね。

でも、花粉には要注意の1日ですよね?