政治家の発言から思う事。


昔、ぼくがまだ小学校の時期です。自分が成りたい職業として、私は「政治家になる」と言いふらしていた時期がありました。
何故だと云うと、当時安保闘争等で野党社会党などの党首が盛んに急進的な発言を公にして時の政府の攻撃をしていた姿を子供なりに注目していたからです。
共産党の議員たちも、盛んに自民党政権を非難し変革を訴えていました。しかし、今一つ心に深く入ってこなかったのは彼らの党派性が露骨にに居ったからかもしれません。
あるとき、共産党の立会演説会に一人で参加し、会の後で交流会に出たのですが、自分が未だ「青二才」で投票権が無いと分かると主催者らの視線がどこか水臭い対応になってしまい、それっきり共産党の会には参加しなくなった事もあります。大通りで演説する議員さんの口調と勢いは若者の心を奪うのですが、いざ近くに寄ると意外とありきたりの発言が目につきました。

こうして、中学生になると自分の中から政治家に対する夢がしぼんでしまった事を覚えています。無くなった浅沼委員長に対する尊敬、樺美智子さんへの共感は失せてはいませんが、実際の政治家連中には魅力が無くなってしまったのです。
・・・僕が政治的な参加を再開するようになったのは、それから数年後に大学生になってからですが、学生運動への関わりに関する考察はまた別の項で書きたいと思います。
ここでは、政治家の発言の重さという事でもう少し書いてみたい。
先日民主党の首班選挙で小沢さんが敗れた。その後の会見で、彼は「私は、これから一平卒として民主党の為に闘う」と述べておられた。
しかし、そうした言葉と並行して、管首相から打診された副代表(代表代行?)の椅子は即座に輿石さんと一緒に拒否されたと聞いている。
この二律背反する行動が理解出来ない。・・・もし、選挙が終わって一平卒としてやっていくのなら、管さんから差し出された役割を気良く受けるのが筋だと思う。何故、即座に拒否をするのか?われわれには理解できない。まるで、喧嘩の後の子供の意地っ張りのように映る。
こうした、政治家の云うこととやる事の二律背反が国民を政治不信に進ませてしまっていると思う。
小沢さんだけではなく鳩山さんもそうだ。
管さんに小沢さんとの正面衝突を避けるため様々な助言と調整役を買って出て居られたが、自分の提案がそのまま受け入れられなかったら「おれは小沢に世話になって総理になったから」最後は小沢支持に回ってしまった。・・・これでは、調整役としては失格である事は明らかです。
鳩山氏が本当に小沢と菅の間に立つバランスのある政治家であるなら、せめて最後はどちらにもつかない立場の表明であるべきだろう。
人に意見をしておいて、「自分の云う通りにしなかったら相手に反対の立場に立つ」と云うのは、政治的には許されても人として信頼を得る生き方としては容認されないやり方ではないのか?こんな人物について、私なら信頼度はゼロとなる!

鳩山氏は、結局どっちつかづで、その場限りの政治を続けていたから国民から総すかんを食った・・・そう評価されても何も云えまい。

つくづく、政治と云うものは一枚岩では評価できない代物だ。
自民党政権から、新しく社会の在り方を改革する旗印としての政治的使命を帯びているはずなのだが、なかなか改革の結果が見えてこない。

しかし、民主党政権になって、一つだけは確実に改革が進行中の法案がある。
それは障害者の制度改革を進めていると云う事です。
これについては、国民の目にあまり見えていないので注目をする必要があるのです。
今まで、障害者を含めずに、専門家が独占して法案作成していた体制が改革されて、現在は過半数の障害者代表自らが次の障害者立法を確立すべく準備を進めているのです。
悪名高き、「障害者自立支援法」から、新しく日本の社会に根付く障害者立法が今後もその土台作りから立法化へ、着実に進めて頂きたいものです。
この法案を、推し進める限り、このスタンスが守られる限りそれだけでも私は民主党政権の存在意義があると信じています。