戦争が久蔵とシゲ子に齎したもの。


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どんな意味にせよ、戦争が映画の題材に使用されることは多い。平和な日常生活と対比すれば、戦いの中の日常は非日常的狂気が常習化し当たり前となるがゆえに、人間の価値観が激変することにだれもが同意せざるを得ない。しかしそのことと戦争を正当化することとは別であろう。
 「戦争を自ら体験した世代と知らない世代が対立するのではなく、理解しあうことは実際には困難な隔たりがあることを認めつつ、どこかで貴重な体験と言葉を共有できる方法を見つけ広げることが必要だ」・・・こうした信念にもどづいて人は生を貫き、生きざまを残していく。
 
 映画監督若松孝二も、当初はピンク映画の怪しい製作監督として脚光を浴び、場末の映画館でその名声をとどろかせた。
しかし、最近の彼の作品では人間の本質を戦争や殺人というぎりぎりの状況下で描き暴く社会性の濃いテーマが取り上げられ、注目に値する活動を展開している。

キャタピラー」は、今年の第60回ベルリン映画祭に上映され、寺島しのぶが最優秀女優賞を獲得したことで一躍メジャー・マスコミでも注目を浴びた作品です。
現在、全国の都市等で上映活動が続けられているが私もこの9月、大阪第7芸術劇場にて鑑賞してきました。以下、若干の感想を書き記しておきたい。

主人公の久蔵は、当時の日本の片田舎のどこにでも繰り広げられていた戦争への動員により戦争体験をした男です。
しかし、一つだけ一般的な兵役体験者・傷病療養者と異なる体験を負った。おそらくそうした事例が現実に存在したかもしれないと推測するが、主人公は傷を負い生きて妻のシゲ子の元へ帰ってきた。しかしその姿は上肢下肢が砲弾により吹き飛ばされた姿で。かろうじて命を維持し続ける久蔵の姿を見て妻は泣き崩れ動揺する。
久蔵は「生き神様」として村の人達から神格化されるが、彼の存在は国家軍隊の象徴として利用された悲しい生きながらえと化す。軍国主義の為に国に生きて帰ってからもなお自由を失い、利用される人生を強いられていく。しかし、夫に対する妻としての務め=介護を実際に担っていくのはシゲ子だ。赤子のように何も一人では出来ない夫の為に、寝食をすべて尽くす生活が始まる。お国のために戦う戦争動員体制と一つになった誇りに支えられているかのように、軍からもらった勲章と新聞記事を床の間に飾り、二人の夫婦としての日常生活が再開されるが・・・
シゲ子は、ストレスから久蔵に手を挙げる。久蔵もシゲ子を睨み付ける。しかし、彼には妻を殴打する手足がなく唾を吐く事しか出来ない。
ある時は赤子のように夫を懸命に介護するシゲ子のひたむきな介護、リヤカーに夫を乗せて村の中を練り歩き、村人たちに声をかけられながら「生き神様」の姿を見せて歩く。あたかも、軍国主義体制下の務めを尽くす一国民であり続けるために。
 二人は確かに夫婦であり、戦争体制の社会の中でどこまでも生き続けようとする。しかし、実態は人間としての誇りを失い、尊厳を傷付けられた犠牲者であることが次第に映画を見るものに伝わってくる。
やがて戦争が終結する8月15日、久蔵は留守になった合間を見て家の外に這いつくばって脱出し、自ら池の中に身を投じて自殺する。
彼は、自己選択により命を絶つ。これ以上妻に悲惨な介護をさせるわけにはいかないこと、戦争中に自分が犯した中国大陸での暴虐と非人間的行為にさいなまれ、死を選ぶことで苦しみの終止符をつけることとなる。彼を救うものはもはや命を絶つことしか残されていなかった。
物語はその場面で終わるが、おそらくシゲこの人生はそこから新たな一歩を踏み出していくことになるだろう。久蔵は自分が死ぬことにより、妻に対して自由を提供できることを恐らくは自覚していたように思う。自分が生きながらえることにより、どれだけの苦労を掛けることになり、なおかつ戦争で犯した自らの暴力に対する自己嫌悪と精神的苦痛に日夜追いつめられることになるだろう。・・・その苦しみに耐えられなくなり、最後の力を振り絞って命を絶つことが彼に残された唯一の選択肢となった。
この映画の結末は悲惨だが、シゲ子の女性としての生き様は見るものに強い印象を与える。それを感動と呼ぶのか?私にはわからないが、人間シゲ子としてみるとき、多くの当時の日本人女性が辿った生き様を、シゲ子の生き方の中に映し出されているように感じるのは私だけでしょうか?
 戦争は普通の人間を狂人と変貌させ、ただ敵国の兵、人民であるという理由だけで殺戮と暴虐の限りが正当化される集団行為です。
これをしてはならないことと倫理的に子供に教えることに、誰しも同意するだろうが、事国家の決定として戦争動員への社会的な動員が正当化されれば、勝つ為には何を行っても良いという判断基準がすべての人間的な倫理に優先することとなる。

 この映画を見て、多くのことに人は気づかされます。
多くの人に、この映画に出合い自分の戦争観を今一度問い直す機会が得られれば、おそらくは監督はじめ製作者の努力は報われることでしょう。
戦争体験を風化させることなく、何を伝えていく必要があるのか?それを体現していくのは自分自身です。

そろそろ、朝顔たちも終盤のステージになりました。冷え込みが深まるにつれ作数も減っていますが、まだ咲いてくれているので、見守っています。・・・それにバッタ君もいますしね。