65年目の「遺言」を読ませていただいて思うこと。

A新聞では、朝刊で連載の戦争証言を掲載している。題して”65年目の「遺言」”と名付けられたこの証言に、毎回胸を打たれる。
もう80代を超えている人たちはそれぞれ、65年前に戦争のどさくさで被った傷を抱えておられる。たくさんの人達は命を落としたが、奇跡のように生き延びた人たちがいる。単に運が良かったと云えるものじゃない。彼らは死んでいった家族や仲間たち、無数の悲痛な叫び声をあげる犠牲者たちの死にざまをそばで見てきている。
 65年の歳月が、当時の苦しみを和らげているわけではないが、時間の経過というものが記憶を遠い過去に押しやりつつあることは否めない。
 ・・・まして、戦争を知らない世代が過半数を超え、生死を潜り抜けた人たちも年老いて次々に亡くなっていく中、どうしても語り残さなければならない事実が残っていることを「体験者」たちは話し始めている。

 今回、こうした特集で戦争体験者の貴重な証言を読むことが出来る機会を得たことは、貴重なものだと感ずる。そう感じて記事を読んでいる人もきっと多いことだろう。

 第2回の証言者は、戦艦大和に乗り込んだ少年兵の八杉さんの話だ。若干15歳で海軍に志願し、17歳で大和の特攻出撃に3千3百余人とともに乗り組んだ。しかし、米軍のべ1千機の空からの攻撃にさらされ、沖縄にたどり着く前に撃沈させられた。この戦闘で救出された乗組員は276人と言われているが、八杉さんもその生き残りの1人となる。

 八杉さんは語っている。「3千人の命が1瞬で奪われた。人間が考えてはいけない作戦だった」
 しかし話はこれで終わらない。
 生還した隊員たちを待っていたのは、大和沈没の事実を秘密として決して洩らさない命令と、呉の陸戦隊への転属だった。特攻の次の任務は自爆だった。本土決戦を控えて棒状の地雷を戦車に踏ませる訓練を繰り返したという。
 そうした日々の後8月6日、約20キロ上空の北の空で紫色のせん光が走り原爆が落とされた。すぐさま駅や鉄道復旧のために広島市内に赴いたが、その凄まじい焼けただれた情景を目の当たりにして、「この爆弾は何かおかしい?」と感じたという。
遺体の収容等で3日間働き通し、「水を飲ませてくれ」と懇願する10歳くらいの少年に足首をつかまれた経験をしたという。しかし、彼に水を与えることなく立ち去った自分に対して、後々後悔の思いを持ったという。何故彼に水を与えてあげることをしなかったのか?たとえ水を飲んだら死んでしまう命であったとしても、自分がとった行動は果たしてどうなのか?いつになっても自問自答を繰り返しているという。

 八杉さんの体験は、大和沈没と広島原爆という衝撃的な戦争体験を二つとも連続して経験する壮絶なものだ。
後々の彼の人生に大きな傷を残したことは間違いないが、それでも八杉さんは戦後必死に働き、ピアノの調律師として生き抜いてきた。しかし、結婚には恵まれず14回の見合いをしたが断られ、15回目にやっと結婚したが被ばくの過去を知って3か月で妻が去って行ったという。
 彼の戦争体験は、普通の市民として家庭を持つことを許さなかったのか?しかし彼は、思いを語っている。「自分はあの戦争のむごさを伝えるために生かされているんだ」と。
70歳から戦争体験を語る演壇に立ち、その数すでに400回を超えるという。
彼は、命が続く限り若者たちに伝えたいと願う。
「わずか65年前、狂気と愚行が世界を支配した。本当の平和は自分たちで作らないとやってこない。そのことを若い人に知ってほしい」と語る。

 地獄は、他でもない人間同士が作ったものだ。
国と国が戦争状態に入り、憎み合ってもいない兵士同士が殺戮をすることに駆り出される。民間人も巻き込み、場合によっては町ごと焼きつくし破壊しつくす近代戦争・・・そうした戦争に、勝ち負けはどんな意味があるのか?
戦争をしない生き方、戦争を回避する知恵を、今こそ私たちは再認識し謙虚に学ぶ必要があると思う。
 もし、私たちがそうした学びを止めたなら、どこからか戦争を”さけることのできない聖戦”として美化する考え方がまるでモンスターのように湧き上がってくる可能性があることを危惧する。