ストレスや対立を克服するために。

社会に出て大人たちはどういった社会活動をするにせよ、人との関係が問題となる。
現代社会では、競争により企業等で争うことがあり、また個人としてもイデオロギーや理論において主張を争うことがまま起こる。とにかく争いに負けていては生きていけないからだ。競争社会で、負け組は絶えず社会から脱落していく恐怖を味わいながら生きていかねばならなくなる。

この社会では健全な競争は、社会の成熟度を示しているとも言われるがどうだろう?
健全な競争ばかりではなく、不健全な争いがあまりにも多い。

 例えばスポーツでは、どんなに火花を散らす争いを繰り広げても、試合が終わればノーサイド
その時点で双方の選手は、握手をすることがスポーツ精神の証と教えられている。もし、ノーサイドになってもいがみ合う選手がいれば、その選手やチームは社会からこっぴどく非難され、必要な制裁を受けることになる。悪質な行動発言が明らかになれば、選手生命を奪われることもある。朝青龍しかり、亀田おやじしかり。(具体的事情はそれぞれ違いがあるだろうが)

ところで、社会的対立がいずれも譲らず争いを激化させてしまうと、どうなるだろうか?
例えば政治の場において、民主党自民党がお互いに譲らず政治闘争を激化させていったら、日本の政治は「ねじれ現象」を克服できるだろうか?
法案がどれもこれも国会で通過せず、何かを押し通そうとすれば党派的な違いが意見の交流を阻害し、やがては感情的対立が支配する・・・こうした反目が現在の政治社会を灰色に染めてしまっているかのようには思えないだろうか?
明らかにこうした事態は、国民をしてますます(政治嫌い)に向かわしめることとなる。

 こうして、大人社会では物分かりの良い人は「妥協の人」として疎んぜられ、強く対立者を無慈悲に断罪することが出来る人が社会的評価を高めることとなる。「出来る奴」は、必要に応じて身近な対立者を社会の片隅に蹴落とす能力を身に着けている。それが出来なければおそらく自分自身が蹴落とされることになるから…

人を引き落とし、あるいは自らが誰かに貶められる…こうした関係が社会には蔓延し、安心できる関係が地域社会から次第に消失してきているようです。

こんな時こそ、生き方の根本においてあたかも竹の撓りの様に、他者の意見や主張を受け止められる包容力が求められてはいまいか?
そう感じている人は、実はたくさんいると思う。
しかし、それを感じているということと、生き方として他者の感性や生き方を互いに認め合うことは同じじゃない。
百人おれば、百人百様の生き方があり趣向の違いがあって当然だろう。
個人の趣向が他者を阻害するものでない限り、個人的な好みは尊重されるべきが、条件がそこには当然ある。それは自分一人の利益や趣向の為に他の社会的個人が被害をこうむったり犠牲を被ることがあってはならないことです。

個人の人生が尊重されるように、お互いの個人が尊重される社会こそが理想であり目的となる。

こうした当然ながらの社会的理念を考えていくと、とげとげしい競争だけでは乗り越えることが出来ない何かがあることに気が付くだろう。もし、そうした予感を感じ取ることが出来ない人がいるならば、おそらくその人はやがては自分あるいは身近な人が対立と闘争の中で傷つき、押しつぶされる現状を目の当たりにすることに行きつく事だろう。
その時初めて、自分に何かが足りないことに気付いても、失われてしまった日々と時間は戻ることがない。

だから知るべきだ。
人はストレスと対立の中だけで生き抜くわけではないことを。
時には人の考え方や感じ方に学び、生き方が違う価値観を認めることも必要となる。
このことは単なる妥協ではなく、相手の心を理解し生き方を知ることにつながる
相手に対する理解と知識が豊富になれば、どんなに互いの道が異なろうと、共につながり関係していくための手立てを見つけることが出来るようになる。

・・・こうして、しなり力こそこれからの現代人が身に着ける必要のある生き方のポイントとなるかもしれない。

どんなに多くの課題を抱え、それが解決されずに目の前に広げられていようとも、しっかりとテーマを見つめ今やるべきことを知ることが出来れば、一つ一つ課題を処理する能力を身に着けることが可能となろう。

だから、しなり力の効用を知ることこそ、袋小路に陥り戸惑う自分の生き方となりうる。
撓ることが出来るためには、人間としての柔らかさ、人の言葉をしっかり聞き取る心の広さ、相手の感性を重んじる傾聴の記述が習得される必要がある。

そうそう、昔の人の諺にもあるだろう。
「あの竹のように撓って雪を抱えることが出来れば、決して折れることなく雪解けの季節まで耐えることが可能となる」と。
どんなに鋼鉄で固められたコンクリートや鉄筋であろうと、それに耐えうる以上の重力と圧力がかかれば崩壊を見ることとなる。しかし、もし必要なしなり力を身に着けていれば、強力な圧力と重圧に対しては、弾力性という形の「かわし方が備わり」強力な重圧をさらりとかわす能力が自己崩壊を防止することに繋がらないだろうか?それこそが忍耐力が関係の崩壊を防ぐこととなる。

その弾力性こそ、単なる堅固な鋼鉄に勝る対応能力が備わっていることを学ぶことが出来る。

人は、強いストレスや対立に対して、勝とうと戦うのみでは解決できないものがあることを知るべきだ。