依存と共存のはざまを浮遊する中で…

私にとって、家族とはいかなるものか?
生活を共にし、衣食住の環境を共有しているが、お互いの気持ちの中では目指している生き方や価値観はとても一つにはくくれない。

子供世代がまだ小さく、親の配下にあって育てられている時代にあっては、親の采配する生き方に子供は従っていくしか方法はない。しかし、いったん子供が学業を卒業して、一社会員として暮らし始めると、同じ屋根の下で暮らすためには双方の「家」に対する位置づけにおいて、それぞれ”ずれ”が生じることになる。

 親にとっては子供たちは、やがては独り立ちして独立する存在であり、たまたま同じ屋根の下で暮らしているとしても、一人前に自立した経済的存在であるはず。しかし現実には様々な形で子供世代は親に依存する。

 依存の仕方が極めて限定されたものか?はたまたかなりの経済的依存関係にあるのかは個々に違いはあろうが、子世代が親と一緒に暮らす中ではどこまで相互理解が図られているかどうか?はそれぞれ異なる。

 個々の部分ではかなり重要な生活合意部分があり、話し合いがしっかりとれているケースでは親子の同居は、計画的同居として位置づけることが出来る。

 例えば結婚をするまでの間居候をするとか、一定のお金や資金をためるまで親と同居して独立資金をためる等々、目標をしっかりおいて同居をする場合がこれに当てはまる。

 しかし一方では、こうした合意を嫌って、何となく一緒に住んでしまってそれが何年もの年月を経て、例えば子供世代が就労をしなくてもそのまま家に居ついてしまうケース・・・この場合は、親と子がお互いの位置を次第に確認し辛くなり、将来のことなど節目節目で意見交換が出来ればまだしも、それさえもなおざりになっている場合などがこれに当たる。

 こうした関係にあっては、何か問題が発生しても常にお互いの意思疎通がし辛くなる。とりわけ経済的な依存関係が発生する中で、親の方は子供がいつまで親にとりついて離れないのか大きな不安を持ちその不確定要素が増幅することとなる。親子相互の精神的関係においても不安要素が大きくなる。
一定の財産や年金等がある場合は別として、通常の家族では子供のパラサイト化がこれに当たるだろう。・・・一方子供の方も、親と一緒に暮らすことが自分の本意ではないとしても、現状では依存するほかに生き延びる方法がなく、かつまた別の方法を選ぶ自身も持てなくなる。
当然、社会的にも次第に孤立し、自らの存在に対するネガティブな価値観が増幅する生き方を続けることとなる。
こうした流れの中では、子供世代は次第に社会員としての尊厳を失うことに繋がってしまう。
理想的には、子供が一定年齢になれば、親としてはそれぞれ独立して一社会員として生きていってほしい・・・こう親世代は願っているが、昨今の社会情勢は、若年世代が自立して一人前の社会人として親元を離れて生活することが、ますます困難な状況になっている。このことも大きな要因となっていることは事実であろう。

昔ならば、学校を出たら親たちは子供たちを裸同然で社会に放り出し、自分で食いぶちを見つけて生活させ、他人の飯を食うことで一人前の社会人になることこそが、親としてのあるべき対応方法だとされていた。このやり方は、きっと今も生きているのかもしれない。
 しかし、それが次第に通じなくなってきていることもまた事実であろう。つまり子供世代が育つ中でのジェネレーションギャップの増幅が、社会的価値観をして大きく変遷をしていることが言えまいか?

願わくば、子供たちがどう生活していくのであれ、親との話し合いが十分に行われて相互の計画や目標が明らかにされていれば、一定期間の家族としての同居関係は良好に保てるであろう。
しかし、こうした話し合いを保障していくためには、相互のコミュニケーションが十分に図られる必要がある。
一番身近であるはずの家族間では、意外ときちんとした話し合いや、相互の価値観の交流が難しいものでもあると感じるのはおそらく私だけではあるまい。

 昔のように、男親が一番の権威があったり、親だからと言って子供たちに価値観を強制したりすることは論外だが、それにしても相互の人格を尊重して生き方を認め合いなおかつ共に生活を共有することは、そう簡単なことではない。

 一番好ましいのは、経済的にも一定の負担関係を明確化し、例えば生活費等の出費については、それそれどれだけの負担をするのか?についてきちんと決めごとをしておくことが望ましい。
また、生活の節々で連絡を必要に応じて取り合い、相互の助け合い=家事などの分担やリクレーションなどの共有等が良好に進められていれば、その家族にあってはおそらくストレス等の発生は最小限にとどめられると思う。

自分自身の家族の現状を考えると、本当はこうありたいと願う姿からはかけ離れている要素が存在し、しかしその実態認識においては自分と他の家族との意識の違いというものが存在することを認めている。
そうなると、なかなかそれぞれの考え方を論議する機会が作れない。もちろんまったく話し合いが出来ないわけではないが、核心部分においてそれぞれの立場の意見の違いがあり、なかなか一つのまとめを共有化することは難しいと実感する。
一方では、「家族だから、難しい理屈はいらない。共に暮らしていれば、状も通じるしお互いの協力もできる)それはそうだが、その過程で曖昧にされているリスクがあることを、過小評価すべきではなかろう。
そこを放置してしまうと、大きな家族個人間の溝を家族が個別保有することとなる。これはとても将来的に、危険な精神的要素に思える。

 本来は、子供たちはそれぞれ親から離れて、独立して暮らしていくことが理想と考えている。
しかし、現実にはそうした理想が実現することには、様々な困難が絡まりそう出来ない現実がある。・・・そうなっていることは子供に責任があるというよりも、現代社会の縮図として、私たちの家庭での繁栄が示されているのかもしれない。
 今後10年20年と経過していく年月の中で、私たち家族はどうなっていくのか?それは分からないが、核家族と言われる現代の家族にあっても、今静かに現代版「2世代家族」「3世代家族」が広がっているように思われる。
・・・これは昔のように、大家族として一定の家父長的な関係をはぐくむことにはならないが、どういう価値観で発展あるいは分裂していくのか?興味深いものだ。
大事かつ大切なことは、それぞれの立場から自己の価値観を相手に強要するのではなく、それぞれの生き方を尊重してなおかつ生きがいを発見し、今確かめて味わえる生き様を自分自身の生存する証として、相互に支えあう生き方が必要なのではないか?と思う。