衝撃の写真

それは衝撃の写真でした。一度目にして、暫く見つめ、長い時間注視するしかし、目を離すことが出来ず、ずっと眺めていました。
 
 先日、新聞に東日本大震災で流され、海の中に沈んでいる二つの写真が掲載されているのを見た。・・・それを見て驚かれた方がおそらくいると思うが私も衝撃を受けた。
 その写真とは、一枚は宮城県の近海に潜った潜水係が撮った写真で小学生くらいの少女がほほ笑んでいてそれをすぐ傍から笑みを浮かべてにこやかに見ている父親を斜め前から取っている写真です。どこかの家族と思われるがその写真が震災で流され、海の底に沈んだ。たまたま潜水したカメラマンが海の底でそれを発見し撮影したのだが、誰も訪れるものがいない海の底で、ひっそりと置き去りにされているのが分かる。おそらく照明を照らしているので見えているが、照明もなければ発見は難しいかもしれない。
海の底を住処にしている魚たちや深海の魚類だけが知っている一枚の写真、それを撮った当人たちの安否は果たして無事だったのだろうか?誰も知らない海の底でその写真が沈んだままになっていることを、今回海の底に潜った人がいたから発見できたが、普通ならそんなところに埋もれていることはだれにも分からない。しかし、人知れずその写真を通じて少女は微笑み、父親は満ち足りた笑顔をたたえている・・・
この写真を見ていると、なんだか不思議な気持がしてくるのだがその不可解さには苦い被災者の思いが深くこめられているような気がする。

 そしてもう一枚の写真は、和室の6畳から8畳くらいの部屋がそっくり海に流され海の底に沈んでいて、それが潜水夫により見つけ出されて写真に撮られていた。
さながら舞台のセット品のように和室の枠だけが削られて沈んでおり中はそのままの状態になっていた。この写真は、神秘的な光沢を放っており、竜宮城を覗いたような気持ちになる。もちろん今はだれも中にいない。ひょっとすれば、何かの魚の産卵場所になっているのかもしれないが、かって被災した地域の「名前が分からない」家族がそこに住んでおり、その家族たちが今はどこにいるのかも確かめるすべがない。
海の底に沈んでいる和室を、再び人間が住まいにすることはないだろうが、たたずまいは3か月前とほとんど変わらない状態で発見されていた。
果たしてこれから1年あるいは何年もこのままの状態で存在し続けるのかどうか?それは私達には分からない。おそらく、時間の経過は住宅材を風化させやがてはその形を失う時が来るかもしれないが、少なくとも震災以来の3カ月という期間は、かって住んでいた人たちの住居のままに海の底に沈んで存在していることがこの写真を見て分かる。
この写真を通じて、東日本大震災に被災されて住んでいる住居が流された人々の悲嘆の深さが伝わってくる・・・そんな写真だ。

 この3カ月、大震災の爪痕を記す多くの映像や写真を見てきたが、今回、海の底に沈んだままになっている被災した人たちの生きた証が沢山埋もれていることが明らかになった。
これを発見した潜水スタッフが書いていたが、「こうした海の底に堆積している物たちを、流されてきた残骸として軽くは扱えない何かを感ずる」という気持ちは、私達にもよく伝わる。おそらくこのような漂流物や、海岸近くの海に沈んでいる「被災関連物」はまだほとんど手がつけられていない状態になっており、おそらく殆どはそのままにせざるを得ないかもしれない。
大きな船や建造物等は、航行する船などの障害になるので取り除かれたり片づけられたりするだろうが、生活関連のこうした個人所有物件については、いったい誰が整理することが出来るのか?その答えは見つからない。

 震災で行方不明になったままの人達は今も未だ8千人を下らないと言われている。
彼女彼らが何処に流され埋もれているのか?それを検索するすべを私たちは持っていないのが現実です。
可能ならば、全ての不明者をそれぞれの家族のもとに連れて帰ってあげたいが、おそらく多大の困難が伴うと思われる。
家族が行方不明のまま、新しい生活へ一歩を踏み出そうとしても、精神的には立ち直ることは大変難しい。
遠く離れた地域からではあるが、私達が役に立てる事を少しずつでも良いから必要な人達のもとへ届け続ける支援が求められている。
離れている、仕事を持っているから何も出来ないのではなく、離れていても、仕事をしていてもお役に立つことを見つけ出し、それを継続する活動こそ、私たちがやり続ける事なんだ・・・そのように抽象的ではあるが具体的に心に決めている。

私の場合、¥500円玉を貯金箱に入れ、意識的に被災された方への直通カンパとして、募金をしているのです。
もちろん今は自分一人でやっているのですが、4月からかなり貯まってきました。一定の量になれば、直接最も求められると判断する方に送ろうと考えている。その送り先はまだ決めていませんが、福祉関係の仕事に携わっている被災地のケアマネさんに、直接送金したいと考えているんです。
自ら被災者であっても、専門職としての仕事に黙々と携わっている人を直接見える形で励ましたいと考えるからです。

巷にされている赤十字や共同募金ではいつになったら配分されるのか?
あのやり方は気に入らない。もっとタイムリーに、求められている人に見える形で送金したい、と考えています。

これが被災地カンパ用の貯金箱です。
全部500円玉が入っているんですよ!せっせせっせと500だまを作ってはここに入れております。最近は、何を買うにもまず1000円札を出して500円玉をお釣りでもらえるように買い物してるんです。これって、楽しみでもあるんです…どんどんたまるから。

一方こちらは、今盛りの黄色い花です。
きれいに咲いてますね。

そいで此方はゴミの山…なんでと思われるでしょうが、職場の近くの公園にこうした地区の恥部があるんです。
標識に「ここにごみを捨てないように、警告する「立て看板」が設置してあり、ここにごみを捨てたらいけないと一目瞭然なのに、毎回ゴミがどこからともなく置かれてしまうんです。
市の方がしかたなく、定期的にゴミを回収しているんですが、ごみを置いている人の意識はどんなもんなんでしょう?・・・自分が要らないものは、誰の迷惑になろうが構わず捨てに来る。それを片付けることを己でやろうとせず人に押し付け任す。公園を管理する人に甘え、置いてはいけない筈の場所に、誰かが置いているからと言って自分もごみを捨てる。・・・こうした非常識が繰り返され、最初は一つ二つのごみが山となって捨てられ悪臭を放つ。止む無く公の環境衛生係がゴミを回収するが、きれいにゴミが片付けられたしりから、またごみが捨て始められる。
 私は思うんです。監視カメラを設置して、ごみを捨てる人を特定し、何らかの罰金を科すべきだと。常習犯に対しては、それなりの警告と罰則を下す社会正義があっても良い。こういう社会常識を守らない行為を、厳しく問いただすことが必要なのに、ごみを捨てる人達は未だに放任されたまま今日を迎えている。

・・・この光景は、毎回横の道を通りかかる人々の気持ちを暗いものに変える悪影響を放っているのです。こうしたごみの山を見て、腹立たしいやら情けない気持ちになっている人は少なくないはずだと思うのですが、いつになっても繰り返されている市民生活の現場光景なんです。
毎日通る道ですが、このゴミの山を見るたび、情けなくなり「何で日本人ってこんな常識のない人達が溢れているんだろう?と深ーいため息が自然に上がってきます。

こうしたことって、どうしたら良いんでしょうか?