昨日、書きかけた記事が消えてしまった。何で?

きっと、こんな体験は誰もがしているのかもしれない。
でも、もう消えたものは戻らない。腹を立てるとそれだけエネルギーの損失になるから、あきらめて、今日また再び書き出そうとしている。

 昨日書こうとしていたのは蝉のことでした。
炎天下が続く猛烈な真夏の住宅街、それも郊外に建っている公団の木々が一杯立ち並んでいる緑の散歩道を、私は歩いていました。
そこで見たものは、短い自分の生命を必死に完全燃焼しようとしている蝉の抜け殻と、不特定多数の蝉たちの姿です。観る者を圧倒する抜け殻の数と、上空で乱飛行する蝉の導線は決して美しいものとは言えない。しかし、今彼らが出来ることは、近くの留まれる樹や草木電柱などにしがみついて限られた時間に許される自らの鳴き声を、力の限り夏の大空に向けて音響を放つことだけなのだ。

毎日、どれだけの蝉たちが死んで行っているのだろう?
そこいら辺の道路に落ちている蝉の死骸は、誰にも葬られることなく見捨てられ、やがてアリたちや昆虫たちの餌になり、姿を変えていく。
特に人間のすることがえげつない。
死んではいない眼を回して気絶している蝉を平気で踏みつけてそのまま去っていくなんてことはざらだろう。さらに、車を運転する輩が道路を突っ走って蝉たちを蹴散らかしていく。生きている蝉を吹き飛ばし、死んだ蝉をさらに踏み潰すことに対して、何の道義的な反省もしない。
人間たちの勝手な行動に対して、きっといつか地球の週末が来る前には、今までの何千年の恨みを、人間は受け止めなければならなくなるのかもしれない。

そんな身勝手な人間生活から、少し目をそらして感情を研ぎ澄ましてみると、今まで見えなかった蝉の世界が少しずつ見えてくるものだ。

 私はあの小道の樹で見かけた蝉の抜け殻がいくつも連なっている姿を忘れないで記憶にとどめておきたいと思った。
人間も、何時かは脱皮することにより、従来の自分の殻を脱ぎ捨てる時が来るかもしれない。
その時、単に精神的な抜け殻だけではなく、見える形で何かを残していく必要があると思う。
自分にとってかけがえのない自分の抜け殻を脱ぎ捨てて飛び立つとき、人は新しい世界へと、踏み出すことが出来る。

古き自分の抜け殻を、己の力で脱ぎ捨てられるものだけが、次のステップに向けた人生のステージの入場券を手に入れることが出来る。

明日も炎天の真夏らしい。
きっと蝉たちも早朝から忙しくなる。この時間は、じっと朝が来るのを待ち構えているのかもしれないが、毎日一定の時間になると、一斉に蝉の大合唱が始まるから面白い。こちらならでは大体5:50分ごろから蝉たちが泣き出す。朝顔たちは夜の薄暗いころから静かに花を開き、朝の6時を回るとしっかり太陽に向かって花を開いている。
今が盛りの朝顔たちも、きっと蝉の大合唱に合わせて、沢山の蕾を今日も用意してその時を待っています。

さてさて、この時間になると目がトロトロで眠くなりました。
明日の朝に備えて、それではどちら様も、お休みなさいませ。