「光男の栗」鑑賞と河瀬さんのメッセージを聞いて

http://www.nara-iff.jp/2010/lineup/narative-movie/post-8.php

昨日夜、家内から誘われて地元の万葉ホールで上映される映画とトークの催しに二人して朝から行ってきました。

 内容紹介はまず映画作品の感想からですが、この映画は昨年の奈良国際映画祭で上映された作品で60分の作品です。
地元の橿原の街が映し出され、主人公となって登場するのが桃井かほりさん。
筋書きは?そこで河瀬さんが描こうとしていた橿原の歴史ある街に住む人々の人間模様が現代劇の中で映し出されている。

息子を探しに東京から出てきた母親役の桃井さんがバスから降りて周りの景色を見まわし煙草を取り出して一服する姿から始まる。
早速通りかかった小学生に、息子のデジタルカメラの映像に移されている写真を見てもらいその風景がどこの街なのかを聞く場面がある。登場する小学生は一般の地元の子どもたちというから飾り気がなく素直だ。
・・・その後、いろんな人と会話を交わしながら、猫を置き去りにして捨てた自転車の籠とその前にあるうどん屋にたどり着く。その主人が、実はカメラの写真の中にあるお店だった。
店主に勧められてうどんをすすりながら話をする姿は、個性ある女優の面白さと味わいがふんだんに香っていて面白い。・・・結局、その店主に教えてもらった息子さんの知り合いの娘さん宅まで連れて行ってもらうこととなる。
そして、意を決して娘さんの母親と面会したのは良いが、結局うまく話が出来ずに逃げ出してしまう。それもデジタルカメラを置いて。
娘に電話でつなごうとした相手の母親の厚意を、まるで有難迷惑であるかのように閉口し、最後は逃げ出すわけです。
その後残されたカメラに収められている写真から、娘が先ほどの母親らしき女性の息子と親密な関係があったことなどを知り、居てもたってもおられず娘と電話で話どういう関係であったのかを問い詰める。
しかし、上手く説明できないのはその娘も同様であり、やがて電話の向こうで娘は泣き出してしまう。・・・実はその息子である光男は、もう亡くなってしまっていたからだ。

 娘の母親は、どこかに行ってしまった母親(桃井)を探しに自転車で街中を探す。その母親も実はガンという病を患っていることが、カメラの中の映像から分かったからだ。


 この映画の最後の場面、娘の母親は、神社の大きな栗の木の下で夢中で栗ひろいをしている桃井を見つける。棒切れを振り回してジャンプしながら枝にぶつけて何とか栗を落として集めようとしている姿が繰り広げられており、娘の母親の姿を見ても、「見てよこれ!すごい栗だよ。みんな取って帰るよ!」と叫びながら、「ちょっとここまで来てよ」と大声で母親を呼んでいる。
 そして、母親は、その夢中に栗拾いを繰り広げている桃井の姿を感動をじっと感情をこめて見つめている。

 この場面で映画は終わるが、映画の舞台橿原市が物語をすっぽり包み込んで構成されており、光男は写真でしか登場しない構成も面白い。
 安っぽいメロドラマならば、どこかで息子を登場させ、桃井と感情を交差させる場面が作られるものだが、この映画ではそうした感傷はあえて避けているように制作され、代わりに桃井の素朴でいてストレートな人間味が橿原市の物語の中にそのままドボーンと入り込ませているところが憎い。個人的には、桃井の喫煙場面がやけに多いことが気になるが、これは映画だから自分が煙草臭い臭いを押しつけられているわけではない。
それなのに、桃井という女優が煙草なしにはそうした役割が演じられないところに少し違和感があったことはいがめない。・・・おそらく、この映画は内容はすごく奥深いのだけれど、学校関係で上映する教育映画としては少し上映に際しては「物議を醸しだす」かもしれない。・・・だって、これだけ喫煙する姿を多くの場面で主演女優が演じているから、たとえ批判的に見たとしても子供たちには「喫煙者の情景」が深く記憶の映像として心の中に留めてしまうことになるから。
 私がもし校長なら、上映可否に際しては「OK] のサインを出すが、どうだろう現在の教育委員会や様々な教育関係者がそれを許せるだけの懐があるだろうか?

 さて、私がこの映画と河瀬さんについての話したいことは喫煙問題ではない。

ひとつ面白い余談として、最後の場面の栗の木の下で繰り広げられる主人公の栗取りの場面だが、実は撮影された季節が冬の12月であり、その時期本当は栗はもう落ちてしまっていたそうです。では、どうやってあの最後の栗の木の場面がとられていたか?それについてもエピソードを、トークの中で河瀬監督が語っていた。
「実は栗の木の葉っぱは、橿原市の子どもたちや沢山の人達で書いていただいた栗の木の葉っぱが映されていたんです。皆さん、私がこう説明しなかったら誰もそんなことは分からなかったはずです。でも皆さんに伝えたいことは、こうした(見えない命)が人を繋いでいくということです」
大勢の橿原市の人達の協力を得て、この映画の製作が完成しており、そうした協力なしにはこの映画は出来上がっていなかったことをここにお伝えしておきたいのです、恐らくこう河瀬さんは言いたかったことだろう。

 私はそれを聞きながら、なるほどさすがに良いところを見ている。
映画製作者の河瀬直美は、橿原市を舞台にして実は、その街で住んでいる人々が繰り広げている心を映像作品を通じて描きたかったのだということが良く理解できた。
世界の都市では、その一つ一つの街が持つ歴史というものがあり、多くの人々の生き様が歴史を作り上げる。でも、とりわけ美しい自然を持っている街では、人々はそれを自分の生活の背景として誇りを持って生きている。きっとこの映画では、監督は人間の持つ深いよりどころを表現したかったのに違いない。この家がは中国の映画監督趙曄氏との共同作品として作られているが、映画鑑賞後に様々に意見を交換し合える作品と言えると思う。
現在全国で上映中の「朱花の月」は未だ観ていないのですが、近々また観る機会があると思う。これからの河瀬さんの作品は、特に注目して追っていきたいテーマを投げかけてくれるので、楽しみです。

私たちの日常生活でも、見える者の背後に沢山の見えないものの関わりが広がっており、そうした関係にどれだけ自分が思いを馳せることが出来るのか?が、その人間の品位を決定するといっても過言ではないだろう。

 私も、河瀬さんと同じく特別な宗教に信心を抱くものではないが、人間を生かしているこの地球と宇宙に対して、自分が理解出来る出来ないに関係なくある種の敬意を払う気持ちは持っている。
やがて、私たち命を与えられた生き物は、その生命を終えて土にかえることになるが、自分の生命だけではなくすべての生命体を存在たらしめている秩序に対して、謙虚に生きるべきだと考えるから、自分勝手な振る舞いでは無い知恵と万物に対する愛情が不可欠だと思う。
 原子力開発に関して言えば、原爆の開発と使用のみならず原子力の平和利用ということ自体が、大きな矛盾をはらみ人間社会を脅かしていると感じる。おそらく、人間には原子力を統制する能力などありはしない。バベルの塔の崩壊と同様に、そうした科学至上主義のなれの果ては、人間の文明のみならず地球の生命体の自滅に行きつく可能性があるとも危惧する。

良い映画が沢山こうして作られ、公開されています。テレビでは、なかなかこうした映画に出合えないのですが、皆さんの地域ではどんな文化が発信されているでしょう?
映画鑑賞の後、妻と久しぶりにホール5階のレストランで食事をとりましたが、二人ともお腹が朝食なしで空いていたので、しっかり満腹に食べてきました、ご馳走様!?