映画「311」を観てきました。

久しぶりに、映画を見に行きます。朝の10時からの開演だから、早速出発準備ですが、その前にちょっとパソコンに向かっている。
見る映画は、http://docs311.jp/

どういう映像を提供されるのか?
大きな関心があるのですが、きっと重たい内容になるかもしれない。

でも、同じ国の中で、3・11から原発放射能汚染が続く今、自分が何を考え何を忘れてはならないのか?もう一度考え直す契機になるような気がする。

今なお、住む家と地域から避難して戻れない人達の思いと、問題の深刻な課題に対して、どう立ち向かうことが出来るのか?自分たちの問題として考えることが必要だと思う。

映画の感想は、見てから書くことにしまーす。行ってまいります。

 最初、4人の計画では、原子力発電所放射能汚染で立ち入り制限されている福島に肉薄する計画を立てていた。
いざ30キロ制限内に入って線量計の針が示す高濃度の放射能を確かめながら車で接近を試みた。しかし、車がトラブルを起こしてタイヤがパンクして修理に手間取るなど、予期しないアクシデントを前にして、急きょ計画変更して津波被害の取材に切り替えたという。

 この映像取材に同行した男たち4人・・・森達也綿井健陽、松林要樹、安岡卓治・・・はそれぞれ映画や紛争取材等でこの時代の第1線で活躍している男たちだが、今回の東日本大震災の実態を確かめるため、マスコミに頼ることなく情報収取に踏み出した。

 しかし、災害実態の取材となると、まだ犠牲者の救出のために必死で最前線で奮闘している人たちの厳しい目線をさけることが出来ない。
自分たちの悲しみや傷を、断りもなしに映そうとする4人に対して容赦のない怒号が飛び、棒が投げ返される場面があった。
「何で、俺たちの悲惨な現場を、死体を撮るんや?見せもんにするのは許さん!」と。
 こうした怒りと抗議に対して、森監督をはじめ4人は自分たちの取材の真意を誠心誠意説明しようとする。・・・
怒る男に対して、森監督が説明を何とか試みて罵倒されている光景を、恐らく綿井らが映像を撮り続けている。役割は分担されて、人々の反応をそのまま映像の中で見せている。

 この場面は最後の被災地の後継で写されるのだが、その前には例の大川小学校の子どもたちの甚大な被害情景が映される。
 まだ見つからない子供たちの捜索をするため、親たちが毎日重機と一緒に泥まみれになりながら我が子や知人の行方を探し続けている親たちの姿がそこにあった。
 この大人たちにも森監督は語りかけ、「今どういう気持ちで子どもたちを探しているのか?」問いかける。
 素直に問いに答える親、押し黙って言葉を出すことが出来ない人、一生懸命言葉を探してやがてポツリポツリと話す人など様々な反応がある。
 「大川小学校の裏には、逃げ延びることが可能であった山が控えている。何故その山に避難しようとしなかったのか?何十分も校庭に整列させて待たせ、その結果津波に巻き込まれ、多数の子どもと親たちを帰らぬ人にさせてしまった・・・その誘導のまずさ、無責任な引き回しがなされたことがくやしい!」と語る。
我が子を、みすみす津波の被害に置き去りにしてしまったことへの、痛切な悔恨は、いくら悔やんでももう取り戻すことが出来ない。

 しかし、責任を追及すべき教師たちも、もう死んでしまっている。誰に対してこの怒りをぶつけたらいいのか?分からない!

 津波てんでんこ。昔からそう言われていた、災害避難の原則が、この小学校の緊急時避難対策に生かされなかった。
 各学校の対応に際が大きくあり、海岸沿いの学校でもほとんど犠牲者を出さずに非難を完了できた学校もあったが、逆に大川小学校のように甚大な被害を被ったところも出た。

 この映画の始めから終わりまで、3・11から続いている被災地域の映像がぎっしり埋め込まれている。観る者には重たい映像かもしれない。
しかし、私たち非被災地の人間は、しっかりとこの映像を見る必要があると思う。この映像が全てではなく災害の中のほんの一部でしかない実態であるだろうが、この膨大な破壊された地域と人々の情景を、しっかり覚えておきたいと感じた。本当は、実際に現地に赴いて自分の眼で見てくることが一番だと思われるが・・・

 これだけの災害は、数年間で復旧が可能であるわけがなく、今後数十年の月日が必要となることは明らかだが、傷を受けた人々の痛みはおそらく一生消えることはない。
精神的な痛みに対して、私たちに出来ることは何か?

この問いに対して、これからの自分の生き様の中で、出来ることを顕わしていくことこそが必要だと念じている。

 森さん、綿井さんたちの勇気があったから、こうして貴重な映像を見ることが出来たことを思うと、映像が果たしていく大きな力というものも考えさせられる。

 皆さんも、もし機会が得られれば、映画「311」を観に行かれたら、と思う。

帰りの電車から、満開に咲いている桜の花がほうぼうの街の中で見ることが出来た。
ほんと、今日は、一日桜の花に包まれた、お花見の一日でしたね。