国歌と国旗掲揚の強制について考えました。

国歌の斉唱や国旗掲揚に関して、公務員の教師たちに強制を伴う業務指示を出し、それに従わないものを教壇から排除しようという動きが出ている。
そうした発信元は大阪の維新の会を中心としたグループであるが、彼らの勢いに同調する人たちが増えて、今や大阪府・市のみならず全国に広がりつつあるという。
まことに情けない様相だが、公務員だから国家や国旗の掲揚に対して強制を伴う姿勢を義務付けるやり方はどう考えてもやり過ぎだと考える。
 もちろん、そうしたい人たちが自主的に行うことについてはそれを止めることはない。人は皆、自分の感性と考え方で対応すれば良いことだ。

 答えは簡単なことなのに、なぜ強制措置が出されてこらければならないのか?について、恐らくいろんな考え方があるだろう。
賛成するも、しないもその人達の自由であろう。
これを保障する(自由な判断にゆだねる)ことが、「思想と信条の自由」というものだと考える。

 ところが、昨今の動きは自由な発想と行動を逆回転に回す動きになる。
日の丸の国旗掲揚君が代斉唱が、そんなに踏み絵にしなければならないような問題なのか?
それを踏み絵にしようとしている動きは、憲法表現の自由、思想信条の自由を踏みにじる考え方に通じるものではなかろうか?

昨日の新聞記事に以下のような記事が載っていた。

 あるキリスト教徒の教師は、自分の信仰心に従って君が代の斉唱を拒否し、起立をしなかった。当然後から処分を受けた。しかし彼は、退職までその姿勢を貫きとおせるだろうか?・・・それはどうなるか分からないが、今学校の中に「抵抗や議論をしない空気が広がっている」ことに危機感を感じているという。

今大阪の学校では、異常なまでの公務員に対する思想統制が吹き荒れているように感じる。
橋下市長は、「公務員であるなら、起立した姿勢で国歌を斉唱することは
当然の行動だ」と断じているが、そもそも国家や国旗の掲揚に対して、強制的措置を設けること自体が本来の在り方から離れていることを理解していない。まるで右翼の主張と同じことを国民に強制している。
こうしたことが常態化される社会が、果たして本当の民主主義と言えるかどうか?上からの支持伝達に対して、自分の考え方をはっきりと意思表示することのできない人ばかりが教壇に立ってしまうこと、そうしたことはは、あるべき姿なのか?子どもたちへの教育は大丈夫なのか?大いに疑問に思われる。

 
 世界の国々では、それぞれの国歌があり国旗もある。
それぞれの国民が決めて、それを自分たちのよりどころとしている。
一律に、一つにまとめることが必要なのではない。
人々が望む形で、幾つの国家や国旗があっても良いのではないか?…極言すれば、それぞれ自覚するものが自由に取り扱っても良いと思う。
全て、人々が思い思いに、自分たちの声として表現するものであれば、どれもその人にとっての国歌であり、国旗であるはずだ。

 必ず一つにまとめなければならないとか、強制的にも歌いたくない人を歌わせようとする姿勢こそ、その国歌や国旗の意味を蔑にしているように思える。
 思想信条の自由が保障された社会・・・これを確立知るには、まだまだ多くの議論と経験を踏まなければ、到達できないように感じる。