東京電力の再生に1兆円の税金が投入されることについて。

報道によると、いよいよ東京電力の国有化が本格始動することが報じられている。
11人選ばれる取締役の中で、6人が社外から選出され、国が選んだ6人の取締役が企業運営を監視し舵取りをすることになるという。
社内からも5人が選ばれるが、当然旧取締役はメンバーが一新される。社内からの4人は常務や支店長など東電の次世代人材とされる人たちが抜擢されるらしい。
また、原子力損害賠償支援機構理事で元経産省通商機構部長の嶋田隆氏が名前を連ねていることが注目されている。
彼は、現業の社内業務に携わる位置で執行役も兼ねながら経営を監視する役割を持つという。
 一方社外取締役6人は、弁護士で原子力損害賠償支援機構・運営委員長の下川辺和彦氏が会長に、その他の取締役5人にはNHK経営委員長の数土文雄委員長氏らが就任する。
NHKの経営トップが東電の取締役になることについては批判も出ているが、数土氏は引き受ける気持ちがあることを表明している。

 ・・・とまあここまでは良いとして、こうした新経営陣を発足させることでまず最初に何がなされるのか?そこが注目されることであるが、二つある。
一つは1兆円という「国費」の投入。・・・これは国が出費する。元手となるのは言わずもがな国民の拠出した税金であり国家が大企業を立て直すためにお金を投入することとなる。
資本主義経済では、こうした国家による経営救済措置は本来ありえないことだが、大企業の倒産や国の命運がかかっている巨大企業経営危機に対しては、国家として経済政策を踏み出さざるを得ない状況と判断される場合、こうした国による企業の救済措置が発動されるという。
 今回の場合、3・11の津波放射能事故により、自己責任がある東電という大企業ではとても補償できないような事故処理費用並びに環境に対する汚染除去作業費用が今後何十年と拠出していかねばならない状況の中で、政府は国費を投入せざるを得ないと判断した。(1企業で保障保守できる範囲ではないとの判断からであろうが)
この判断の是非についても議論は分かれるが、問題は1兆円という出資についての国民への説明と了解が本当にとれているのかどうか?という問題がある。
 1兆円と言えば莫大な資金であり、この財政難の期にあってお金はどの公共部門でも逼迫していることは承知の通り。そういう中で、東電の再建のためになぜ1兆円を投入する必要があるのか?他の方法はないのか?1兆円はどのように使われるのか?など疑問はたくさんある。こうした疑念に対して、政府はどこまで説明義務を果たしているのか?
 国会での議論がもっとわかりやすくまじめに行われる必要があろう。そののち、どうしても方法型にない場合、救済措置に踏み込むべきであろう。

 もう一つ指摘しておかねばならないことは、4月より既に企業向け電気料金が値上げされている。7月頃からは一般国民向けの電気料金値上げが政府に申請されているという。
 確かに東電は、今財政は普通の状態ではなく火の車であることは誰もが承知している。前代未聞の原子力発電事故を発生させ、今後週十年その放射能除去と環境の再生のために気の遠くなるような補償義務を負っていることは当然ではあるが、必ずやり遂げて戴く義務がある事業であることは承知していただきたい。
このための事業計画と、経営方針は、今までの事業の踏襲された延長線上にあるはずがなく、今後は2度とこうした事故を繰り返さない安全な電気の発電と送電事業が展開される必要があることを求めたい。すでに原子力安全の神話は崩れており、地震多発国の日本では原子力発電をやめることが現時点では妥当と考える。
 こうしたことを確認するならば、安易に経営難を理由に値上げ申請をする経営方法には、政府は待ったをかけるべきであろう。
 果たして値上げ申請が許可されるのか?値上げの幅がどのようなものになるのか?今後に注目をしていきたいが、今の東電のやり方には1国民として納得がいかないと感じるのは私だけであろうか?
 これほどの規模の原発事故を発生させたからには、安易に原発を再稼働させることには反対する。
専門家たちが調査して安全切符を出しているようだが、本当に安全なのか?信用することは出来ない。
 むしろ、原発なしでも有効な発電事業が成り立つよう、自然エネルギーを開発促進することに力を注ぐべきだと考えるのが妥当であろう。
 
 この夏、関西では電気需要が供給を十数パーセント上回るのではないか?と心配されている。今までのように、電源コードをつないで入れれば電気が来る時代ではない。
このことを国民がしっかり考え方として認識し、必要な電気とはどれだけの電気なのか?についてもっと議論と試行錯誤があっていいと思う。その中で、きっと日本で本当に必要な電気の使い方、電気に頼らない生産や生活の文化が生まれる。

 暗闇を恐れるのではなく、明るすぎる電気の無駄を是正して、闇と明りの価値を再度認識することこそ、今私たちがやっていかねばならないそれぞれの試みであり生き方の再認識に繋がるのではなかろうか?