あるスポーツ新聞の記事から感銘を受けて。

今日、あるスポーツ新聞の記事を電車内で読んでいると、今年惜しまれファンから感謝の言葉を受けて引退した、阪神金本さんが書いている記事の中に、王貞治に関するコメントが書かれていた。
 05年6月2日、その日の交流戦で、対ソフトバンク戦で出場していた金本選手が、9回相手投手からスライダーのすっぽ抜けで後頭部に死球を受けたことがあった。倒れ込んだ金本に両軍の選手が駆け寄り、険悪なムードの中で甲子園でのファンは息をのんだ。もちろん、投げたソフトバンクの投手は一発退場となった。しかし、その後金本は予想に反してすっくと立ち上がって、そのまま一塁に駆けていった。
 ソフトバンクの監督であった王は、冷静に試合続行を指示し、金本も立ち上がって、そのまま1塁のランナーとして走塁し、次の打者の安打で進塁する。その試合は、結局ソフトバンクが勝ったのだが、試合後の会見で金本は「俺は大丈夫や、あたったのはヘルメットや。避けきれんかった俺が悪い」と話した。
 その話を聞いた王監督は、ソフトバンクの全選手の前で語ったという。「金本の話を聞いた。これがプロだ。死球を受けるたびに投手に怒ったり、向かっていくのはプロじゃない。避けるのもプロだ」と語ったとのこと。その王さんの話を、のちに城島捕手から聞いた金本は、嬉しく感じた。相手選手であっても、そうした対応の仕方をきちんと見ている。さすがに球界の大選手は、見るところが違う。それこそが「野球道」だと感じた。

 王選手は、野球界では前人未到の868本の本塁打を放ち、まだ誰もそれを追い越す芸当はできない。そして、その記録の陰には、実は2390個の四球があるという。それだけの、大事な場面で打たしてもらえなかったことがあるにもかかわらず、それ以外の打席の中で記録を積み上げていった。ここに王さんのプロ魂の真髄があるという。
 真ん中に、どうぞ打って下さいと速い球が来れば、プロの選手ならば少々の剛球が投げられてもバットをボールの真に当てる対応は可能かもしれない。
 各チームの中で、クリーンアップを任されている選手ならば、そうした打ち返す力は十分に備わっている。
 一方、投手にしてみれば、バッターに分かるような形で真ん中の玉を投じても、抑えられる確率は低い。だからこそ、その選手が嫌がるようなコーナーに、変化球を交えて球を散らしてくる。
 苦しい試合の接戦場面になれば、インコースのぎりぎりをめがけて、思い切り速いボールやシュート回転してくるボールが投じられるのは当たり前と言えよう。手元がずれて、デッドボールぎりぎりの玉を投球し、打者に反りかえらせる様なボールを投げても、当たらなければ投手が責められる投球とは言えない。
 しかし、金本選手が当てられたように、投手が投げた球がすっぽ抜け、思わぬ頭部にめがけて投げ込まれてきた場合、一瞬のよけ方を身に着けていない打者は、痛い死球を食らってしまうことになり、頭部などの場合大怪我にもなりかねない。
 打者の場合、故意な四球と感じて怒り狂い、投手に向かって殴りかかったり、暴力を行使しないまでも投手や捕手に対して暴言を吐く場面がしばしばテレビに映し出されることがある。・・・当事者たちが必至で戦っており、熱くぶつかり合うことはやむを得ない部分もある。しかし、スポーツである限り暴力はルール違反として慎まねばならない。

 王さんが言いたかったことは、どんなに故意と判定できるデッドボールを体に受けても、よけきれない自分に非を認めるような選手こそ、一流のスポーツマンとして認められる在り方だということを、伝えたかったのだと思う。
 そうした言葉が、王さんから発せられるとき、その言葉は重みをもち、その道の王道を極めんとする人たちを奮い立たせる言葉となる。
 スポーツだけのことではなく、どの分野でも同じことが言えるような気がする。仕事や人間関係の中で、苦境に立って気持ちが落ち込むような出来事はままあるものだ。でもそういう苦しい場面に遭遇しても、起こっている出来事に愚痴を言ってあてつけて次に何が生まれるのか?
 自分にとって、都合が悪い立場を、誰かが陥れたとしても、相手だけにその責任を押し付けていて問題が解決するだろうか?
 うまく物事を処理できない自分、対応能力がない自分にムチ打って、解決方法を見つけ、提案し、実行する・・・そうした能力を自分が持つことこそが、本当のところの困難と災難の対応方法であることを痛感する。

 もちろん、一人で悩む必要はなく、誰かと協力して対応能力を密つけていくことが、最短の解決方法であることを確認したい。

 改めて、王さんの偉大さ、野球人としての奥の深さを知った。