凶器の刃は、どこで育まれたか?

 先日、承知のように相模原市の障がい施設で、19人の障がいを持つ入所者が就寝時に殺される事件が起こった。
 夜中の2時前後と言えば、ほとんどの職員が不在で、仮眠しており、僅かな係りだけが入所者を見守っている時間帯。
 犯人は、そうした係りが手薄な時間に、外からいきなり侵入し、用意していた凶器で次々に障がいある無抵抗の人たちを殺害していった、という。
 警備員役のスタッフも2名いたらしいが、何と仮眠中で侵入者に気付かず眠っていたという。いったい、何のために雇っていたのか?
 犯人は、元施設の職員で、「宜しくない言動」で退職し、衆議院議長に今回のような犯行を正当化する手紙まで送っていた。その内容が大量殺人をにおわす文言だったので、強制入院措置となった。しかし、僅か10日で退院し、今回の事件が実際に行われた。

 →明らかに、早すぎる退院と、その後のフォローが伴わない現在の精神医療制度の至らなさ=脆弱さが如実に示される結果となった。

 もし、入院期間が厳格に伸ばされ、長い年月をかけての治療が継続されていたら、あるいは今回の事件は起こらなかったのかもしれない。
 しかし、これも結果論であり、現実は起こってはいけない犯行が実行され、それを防止することが出来なかった。
 
 平成に入ってから、これほどの数の殺人が一人の犯人により実行されたことはなかった。おそらく今後も、今回の事件はおぞましい事件として記録に残されることとなるだろう。

 一番弱い立場の、重度の障がい者たち。彼らは、自分が選んで障害を持ったわけではなく、避けられない遺伝や病気の変異等により、身体や精神に異常を持ってしまった人たちだ。健常者と同じ能力を持っていないといっても、人としての人間性を持った人たちなのだ。
 社会が、こうした弱い立場の人々を保護し、守ることは当然のことであろう。しかし、今回の犯行は、こうした人々を、まるでヒトラーユダヤ人虐殺のように、社会から抹殺すればよいという、固定観念を絶対化した考え方を正当化するものと言えよう。

 思想の自由は擁護されねばならない。しかし、他者の存在権と生活を奪い去っても許される、命を奪っても許される等々の思想は、認められてはならない。これはあまりにも当然の人権法です。

 もしそうした偏った思想により、実際に人を傷つける企画や行動が行われる危険があるならば、事前にそれを防止するための実力行使も必要であろう。
 今回の犯行に対しては、厳しい制裁を加えることは必要であるが、たとえ犯人を極刑に処しても、奪われた19人の命と、今なお大けがを負って入院している人たちの傷は癒えることがない。また、多くの障がいを現在持っている人たちの事件に対する悲しみは、消え去ることはない。
 あまりにも、残酷で、取り返しのつかない行為に対して、改めて社会的な非難と怒りを表明する。

 犯人は、逮捕されてからも、映像で見る限り、薄ら笑いを浮かべていた。
反省の態度など皆無と言えよう。
 今回の事件を教訓にして、人間の人権とは何か?何故弱い人々の人権が守られねばならないか?しっかりと突き詰めて、考える機会としていきたい。

 それぞれの持ち場において、もし、似たような言動や考え方を持つ人がいたら、そのまま放置せずに、しっかりチームを作って相談対応、教育サポートが出来る体制づくりをしておきたいと思う。

 私たちの社会には、まだまだ恐ろしい凶器の思想が蠢いているかもしれない。自分の中にも、時として他者を否定し抹殺しようとする衝動が隠れていることがないだろうか?