博士の愛した数式 (著者:小川洋子)

 

書籍名:   博士の愛した数式    

著者名:   小川 洋子  

発行年:  (西暦) 2003  

出版者:   新潮社  

値段:    1000-1500円  

投稿日時:  2007/07/21 12:09

本のサイズ: A6版





感想


私は、多くの人がそうであるように、数学と聞くだけでも拒否感が出てしまう部類の人間です。・・・

学校時代、数学の問題を解いていて、楽しいと感じたこともなければ、試験の点数でほめられるような点数を取ったこともない。むしろ、中学高校からの次々と出てくる公式や計算についていけず、殆ど数学の落ちこぼれのような立場に甘んじていた。・・・こんな数学音痴であることから、この本のタイトルには、読む前から拒否感が働いて、今まで何度が本を手に取ることはあったが読む気がしなかった。



ところが、我が家の居間兼食堂の横に縦サイズの本箱が設置されて、数十冊の本が並べられている関係から、自分がまだ読んでいない本には、時たま手が出てしまう。「果たして、これは読むに値する本かどうか?」そんな興味が出ればしめたもの。

・・・今回、たまたま電車で読む本を探していた時でもあり、この本をかばんに詰めて読みだすことになった。



読んでみて、すぐにこの物語の壺にはまってしまった。

ベストセラーになる本には、それぞれ、その独特な魅力があるものです。

・・・この小川さんの小説も、一時書店ではかなりの話題をさらった。

とにかく読み進んでいくと、博士と家政婦の主人公、それから息子のルート君・・・彼らの織りなす日常生活の物語が、ちょうどおとぎ話の物語のように輝きだすのです。

物語の輝きは、決して派手な代物ではなく、記憶を喪失し、80分までの記憶しか頭に残せない、今は古めいた離れの一室に閉じこもっている中年男と、その男の家政婦として毎日通う家政婦の遭遇から始まる。



・・・家政婦としては優秀なキャリアを持つ主人公が、次第に博士に親密な興味を持ち、特別な気持ちを抱くようになる過程がさらりと描かれ、息子と博士の交流を通じての混じりけのない愛情を知ることにより、次第に堅固な繋がりのようなものが3人の関係に出来ていく・・・この過程を読者は楽しみながら読んでいくことが出来る。



そうです。博士は単なる脳に障害を持つ中年男ではなく、人間としての温かさと子供への深い愛情を持つ他に例えようもない人間として、主人公の位置に座る。



主人公は、息子のルートと博士が織りなす暖かい関係=これを何と表現したら良いんでしょう?親子関係でもなければ、友人でもない。・・・彼ら二人は、常に人間として深いところで結びつき尊敬しあって支えあっている。



失われる記憶ゆえに、普通の人が共有できるような関係やつながりは作れないが、会うたびに両者が触れ合い、慈しみ合う仲は、もはや誰もその関係を断ち切ることは出来ない結びつきとなっている。



こうした暖かい関係を、主人公はずっと見つめ続けながら物語を書いている。

博士には数学というコミュニケーションツールがある。・・・それは、本来学問として独立して存在する領域ではあっても、博士にとっては、他には変えられない人生の友なのです。数学を通して彼は人間というものを推し量り自分を語る。

・・・こうした流れは、人間の深いところで引かれあう、本当の結びつきをとらえており、だれが読んでも心に響くものがある。



最後には博士は施設に入所し、たまに訪れるルート親子と楽しい面会を繰り返しながら老いを過ごしていく。…なんだか、もっと物語を読み続けていたい気分にさせる小説です。ここで御終いという段落に来ると、その続きはどうなるのかな?と考える。



きっと、この続きは、私たちそれぞれが作っていくものなのかもしれません。



小川さんの小説は、この本が初めてでしたが、もっと読んでみたいと思う。

場面場面で、美しい情景が、描かれている部分が沢山ある。



その一つは、博士の懸賞金獲得祝いと、ルートの11歳の誕生祝いの場面です。

3人それぞれが企画し、楽しみ、豪華ではないが、心がこもったディナーが用意され、プレゼントが手渡される。・・・クライマックスは、博士が贈り物の江夏の野球カードを開ける場面です。ルートと家政婦から手渡された包みを、まるで王冠を受け取る騎士のように膝まづいて受取り感謝の涙を浮かべ包みを開ける、中からは、博士が尊敬する阪神江夏の剛速球を投げ下す若きエースの写真があり、しかもその写真カードは江夏の実際のグローブの粉をまぶして入れてある貴重なマニアもののカードです。・・・博士は感動し、感謝しそのカードに頬釣りして目を閉じ喜びを体全体から放散させている。



「プレゼントを贈るのは苦手でも、もらうことについては博士は素晴らしい才能の持ち主だった。ルートが江夏のカードを手渡した時の博士の表情を、きっと私たちは生涯忘れないだろう。カードを手に入れるため私たちが払ったごくささやかな労力に比べ、彼が捧げてくれた感謝の念はあまりにも大きかった。彼の心の根底にはいつも、自分はこんなに小さな存在でしかないのに、・・・という思いが流れていた。数学の前で膝まづくのと変わりなく、私とルートの前でも足を折り、頭を垂れ、目をつぶって両手を合わせた。私たち二人は、差し出した以上のものを受け取っていると、感じることが出来た。・・・」



まるで手に取るように、博士の感動と、温かい心が読者に伝わる文章だと思う。

こうした物語が描ける小川さんを、うらやましくも思う自分です。