記念講演:田原総一郎氏の講演から

no-mu2008-02-17

2月16日、大阪にて介護支援専門員協会の大会が開催され、田原氏の講演を聞く機会を得られた。
この講演を聞かれた方も居られると思うが、私なりのコメントをいくつか挙げてみたい。
1・まず、珍しく彼が自分の家族のこと、それも妻の闘病と介護をあからさまに語ったことへの驚きです。テレビやマスコミで知っていた田原氏は、政治家や権力を持つ時の有名人に対して遠慮のない批判と辛らつな毒舌等のイメージを持っていたが、今日の田原氏は違った。会場にいる多くのケアマネジャーを配慮してか、語り口も淡々としたものであった。
しかし、彼が妻の闘病と介護を語った背景には、現在の日本の医療と介護への深い不安が含まれていたのだということが聞いているうちに分かった。

2・彼の先妻が乳がんの闘病を9年続けられたこと、また再婚された方がまたどういう訳か乳がんの病に罹られたことなどを包み隠さずに語られる。
健康そのものの暮らしをされていた奥さんが、健診で病を発見され夫に病名が告知された時、田原氏は大きな誤りを犯したと話されていた。・・・医者から炎症性の乳がんと知らされ、それが性質の悪いがんであることと余命が半年余りしかないこと治療の方法がないことなどを告げられ、それを本人に隠したからです。
何度かの手術を経て自宅に戻られた本人がパソコン等で自分の病気を発見し、夫である田原氏に病気を本人の自分に隠したことを厳しく問いただされたという。
恐らく、半年の余命しか残されていない奥さんからすれば、「それだけの命しか残されていないならば、自分が残りの人生をどう生きるのか自分で考えたかった」という訳です。
奥さんに問い質され、病名を隠したことを詫び、告知ということの大切さを田原氏は身にしみて悟ったと言われていた。

3.それから、奥さんの”がん友”との交流を語られ、がんである患者同士の結びつきがどれだけ患者同士を支え合って生きていける力になるのかを体験されたと云う。田原氏は語っていた。「恐らく、僕の存在より”がん友”の存在の方が当時の妻にとってより親密な関係であった」と語られている。・・・だから、後になって二人の”がん友”が先立って亡くなった時どれだけ悲しみを受けたかについても語られていた。がんという、不治の病を目の前にし人はどんなに足掻いてもそれを受け入れるしか仕方のない現実に立たされることがある。
そんな辛い現実の中で、当人を支える筈の医療や病院が、当人のそばに常に寄り添い支えてくれていれば良いのだが、現実には責任逃れの言い訳ばかりをしている。手術がうまくいかなかっても止むを得ないのだが、自分に責任がない事を云い張るだけで病気に対して逃げることだけに四苦八苦している病院や医者連中が多すぎることも指摘されていた。
病院不信・人間不信を蔓延させるゆえんです。
・・・そんな境遇の中でも田原氏は、懸命に日常生活では妻の介護に精を出したという。だんだん自分のことが出来なくなる彼女の排泄から入浴まで、今まで出来なかった介護を担当することとなった。夫婦の介護は文字通り肌と肌の触れ合いでありそれは肉体的な疲労を伴いはしたが、「楽しいものでした」と彼は語っている。ともすれば、年を取ると夫と妻は疎遠な関係となるものだが、田原氏にとって介護の必要性は、妻との肌と肌の触れ合いを復活させた要因となった。・・・こうした体験談は、講演を聞く者にインパクトのある静かな感動を与えたと思う。おそらく現実に、こうした介護の日常を送っている方も居られると思うが、やがてやってくるかもしれないこうした介護する者と介護される者の体験談は、貴重な示唆を含んでいるように感じられた。
 
まだまだ書いておきたい内容がた草なりますが、今日も大会の二日目でこれから準備のボランティアの為に出発しなければならない。
また、機会があれば、公園のないようなシンポジウムのことなど書いていきたい。本日はここまで。