尼崎での介護殺人に思う。

no-mu2008-03-09

昨年11月、尼崎市のマンションで85歳の夫が80歳になる妻の首を絞めて殺害する時間があった。この夫婦は長年認知症になった妻の介護を男性が一人で続けていたという。・・・1951年に結婚して2年後に一人息子が出来、順調に育つかにみえた58年、交通事故にあって息子が亡くなった。その後妻は、息子が死亡した事故を「自分が一人で外出させたことが原因」と思いこんで自責の念にかられ、心身ともに体調を崩してしまったという。

 そんな妻を、夫である男性は必死で支えて寄り添って生きてきた。夫は仕事が済めば寄り道をすることなく自宅に帰り妻の傍に居て暮らしてきた。
ところが01年ごろから妻に認知症の症状が顕著となり、05年頃からは夫の顔を見ても認知が出来ない状態にまで病気が進行してしまった。訝しがる妻に、古い二人で撮った写真を見せ、「わしはあんたの夫やで」と話をすることもあったという。
勤勉に働いたことで、年金は夫婦食べていくには充分おりてくる。昨年末まで二人で何とかつつまじい生活を続けていたが、11月の初め、二人の関係に大きな影響を与える診断がおりることになる。
お腹の調子が良くないので病院で検査を受け、「大腸がんの疑いがある」と告知された。犯行前日も、激しい腹痛に襲われ、「もう、自分の命も長くない。このまま俺が先に死ねば、妻を看取る者がいない」と深刻に思いこんでしまった。・・・電気の紐で、寝ていた妻の首を絞めて殺害に及んだというのが事件の顛末だが、あまりにも身につまされる事件と言えよう。

 もし、被告が現在の介護保険制度を利用して、少しでも支援の方法をこうじていたら?
もし男性が癌の病で倒れても、公的支援で妻を看てもらう方法を模索していれば、今回の事件は起きなかっただろうか?
しかし、もしもをいくら並べても亡くなった妻の命は戻ることはない。男性は不幸かなこうした介護保険制度を利用しようとはしなかった。あくまでも、自分が最後まで妻を看取らなければ妻が不幸になると思い込んでいた。確かに、結婚してずっと被告は妻に寄り添い、認知症になってからも懸命に介護を続けてきたことは事実だ。
しかし、自分が不治の病になったことで、冷静な判断をする手立てを失ってしまった。もし、彼の傍に悩みを相談する人が居れば、どうであったろうか?もし、信頼できる誰かが従来から彼ら夫婦の支援に手を述べていたらこの事件は防止できたのだろうか?

 想像の域を出ない「もしも…」は、この事件の解決には役立たない。しかし、今後のこともある。この事件をしっかり検証することが、今後再び同じ事件を起こさないための教訓となる。 98年から8年間で、60歳以上の介護に関係する殺人・心中事件が260件に及ぶことを日本福祉大学の加藤順教授が調査で示している。
この中で加害者となるのが”7割男性”であるというショッキングなデータもある。如何に、高齢化する男性たちが、仕事から離反する中で地域と連携を取れず孤立を深めているのかが示されていると思う。
この事件は、現代の日本の高齢介護の実態のを照らし出している事件であることは明らかであり、問いかけられているのは地域での介護に対する支援体制が不足していることであろう。地域包括支援センターが充分機能していないことでもあるが、行政の支援が現在のままでは事態を好転させることは難しいと思う。
税金を道路等の新設の為に無駄に浪費するよりも、世界で最も深刻化する日本の高齢社会に対する対策費としてその支援費を増やすことの方がどれだけ有意義であるかを考える。
今の日本に必要なのは、道路等に象徴される物ではなく、未知の介護社会に働く人材投資であるべきだ。この事を学ぶことが、今回の事件を再び起こさないアクションに繋がる。