忘れてはならない、言論抹殺事件に思う。

no-mu2008-04-06

それは、つい21年前に起こっている。
87年5月3日午後8時15分、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)に無言で侵入した犯人は、居合わせた3人の記者に向かって猟銃をぶっぱなした。発射された2発のうち一発が小尻記者、もう一発は犬飼記者に命中した。もう一人の記者は不幸中の幸いで無傷だった。
小尻記者は、搬送された病院で死亡した。・・・年齢29歳、まだまだ多くの仕事が出来る若い記者は非情の散弾により命を奪われた。

赤報隊」を名乗る者により犯行声明が出されているが、犯人は逃走したままで時効となった。
現在の法制度では、15年で犯人訴追の期限が切れるという。しかし、実際に人が殺されたし、もう一人は重傷を負わされた事件であり、何故25年の延長が適用されないのか理解に苦しむ。

この新聞社に対する襲撃は、明らかに一連の朝日新聞社に対する発砲事件と関係していることは指摘されている。
しかし、犯人の大胆不敵で冷酷な犯行手口から見て、思想的な確信犯であることは読み取れる

未解決事件として残されているということは、また何時こうした事件が起こされるか予断を許さない現実が放置されていることでもある。あの事件を起こした犯人は、のうのうと社会の中で生活し、事件の一部始終を見届けている。彼らは自分たちの犯行に満足しているのだろうか?ただ朝日新聞社に勤める記者であるというだけで、銃で撃ち殺す行為はどう考えても普通の人間が行える行為とは思えない。なんの為に、若い記者の命を奪ったのか?見せしめなのか?誰にも分からない。・・・明らかなことは、「赤報隊」が朝日新聞社を標的にして、この事件を起こしたという事実です。

ところで、時効についての諸外国の制度はどうだろうか?
米国では殺人犯については時効制度を適用せず、最近の三浦容疑者逮捕に見られるように捜査が必要であればどこまでもさかのぼって訴追が出来る制度が確立している。
ヨーロッパの国々でも、事件に対する一律の時効制度ではなく、殺人事件や凶悪犯等に対する捜査はその時効年数を撤廃もしくは延長している国が多い。
こうした諸外国の法律と比較すれば、日本の時効制度は極めて甘いのではないか?
猟銃で新聞社を襲い、問答無用に記者などを殺傷しても15年逃げ切ればその罪が問われないというのはどう考えてもおかしい。
現実に、犯人たちはまんまと警察等の捜査網を潜り抜け、自分たちを捕まえることが出来ない社会に対して、あたかも嘲笑っているかのように姿をくらましたままです。
いつ何時、こうした言論に対する暴力行為が繰り返されるのかも判らない現実の中で、人々はこの事件を忘れ去っている。

先日の映画「靖国yasukuni」が上映自粛に追い込まれる事態を目の当たりにする時、私たち一人一人が表現の自由に対してどういう対応をする必要があるのか振り返る必要があると思う。

まだ暴力行為も受けていない段階で、ちょっと脅されたり恫喝されれば映画の上映を中止するような映画館側の体質は、どう考えても映画というものがどういう役割を果たしているのかを自覚しない映画を供給する側の脆弱性を臭わせている。
昨今、映画館の復活が浸透し、全国の市町村には幾つかの映画館が新設されているが、市民に愛され親しまれる映画というだけではなく、真実を問いかけ、社会的な問題に踏み込んだ映像をこそ大切にすべきではないのか?
単に面白おかしければ良いのであれば、テレビで十分事足りる。
映像として制作し、市民に提供する作品ならば、作り手の制作意図や新しい発想・感性・理念などが盛り込まれてこそその映画の価値がある筈です。

その意味で、今回の上映自粛というものが、映画作品に対して今後どういう影響を及ぼしていくのか?

一番やってはならないことは、社会で自由に発言し映画等の表現が活発に展開される風潮がかき消されてはならないことです。

こうした時期に、再び眠り潜んでいる「銃撃犯人」たちが事件を起こす可能性も十分にある。
ならば、警察はこうした犯罪が繰り返されないよう、入念な警備を行うべきだと思う。

一方、自由な映画上映を予定している「勇気ある映画館」に対しては、市民からの支援を表明していこう。
勿論、そうした上映に賛同して見に行くことも必要です。
友人たちにも伝えて、多くの人達がこうした映画上映を支えていくことは私たちにも出来る。

この日本に、本当の意味で言論の自由が根付くのは、こうした身近なところから個々人が出来ることを広めていくことにより可能であると思う。

まるで、事件を起こした者たちが15年逃げられたら大丈夫と無罪放免されるような時効制度は改めるべきです。
重大な事件に対しては、期限を設けずに粘り強い捜査を続けて頂きたい。そのために、国家的な予算が使われて何ら問題はない。

大事なことは、言論の自由に対する挑戦を行う犯人グループを社会に放置しない仕組みを作ることです。

現在の日本は、この点において極めて甘い法治体制がとられており、諸外国に比べてもレベルが低いのではないか?

政治的特権、経済的特権、暴力的特権等様々な圧力が存在する中で、どんな時も市民の表現の自由を守り抜く仕組みをこの日本社会に定着させる必要性があるのではないでしょうか?