鳩山法務大臣の死刑執行許可

no-mu2008-04-12

現在の日本の刑事訴訟法では、死刑判決後の6カ月以内に刑を執行することに規定されているという。鳩山法相の考え方は、刑執行の最高責任者である大臣の意向によりやらなかったり遣らなかったりするのではなく、法律に則って「粛々と執行すべきである」という考え方であるという。すでに就任4カ月で10名の死刑囚が刑を執行されており、この死刑執行スピードが継続されると、ここ10年では突出した極刑執行責任者として歴史に名を刻むことになりそうです。彼は自ら法の執行者と自認し、死刑に反対する人々の声を聞こうとはしない。

現在日本では、104名の死刑囚が居るとされ、彼らは他の服役囚とは区別されて収監されている。次に誰が死刑を執行されるのか?おそらく裁判歴により順序が決められているでしょうが、この分だと日本の死刑執行速度はどんどん早められていくでしょう。
先進国において、死刑制度を未だ運用している国は少数派となっているが、もっとも強力に死刑執行を取り行っているのは中国であることはよく知られている。
中国では、殺人などの重罪を犯した者だけではなく、社会不安、経済不安をあおった軽犯罪についても、政府司法当局が必要と判断すれば死刑を宣告する。この意味では最も人命が刑法処罰過程で軽んじられている国と非難されているが、一向にそのやり方は見直されていない。・・・いったいどのくらいの死刑執行が行われているのか?もまだ定かではないが、政府発表数では1010人、実際にはその数倍から10倍近くに上るのではないか?と言われている。

米国でも、州により制度は異なるが、テキサス州などはつい最近まで死刑執行を量産している州として有名。北東部などでは死刑を廃止している州が多いが、まだまだ米国での死刑必要論は根強いと言われている。

果たして、死刑というものが犯罪防止のための予防に役立っているのか?これについては意見が分かれることと、どちらの意見もその正しさを証明するデータは十分ではない。

前近代においては、殆どの国において死刑は時の権力者により見せしめ的な形で執行されており、人々に公開するものであった。
単に刑罰を受ける者の命を奪うことに加えて、重罪を犯した者については残虐な死刑執行が企画され、苦しんで死んでいく受刑者を周りで見世物のように見守ることがまるで当然のことのように公開されていたという。
しかし、法治国家として法体系が確立されてからは、報復的な処刑制度は禁止され、個人に変わって法が人を裁くことに変わる。これにより、犯した罪に比例して刑事罰の選定がされることになる。

とりわけ現代においては、人権を無視したような極刑執行は人道的ではないとの判断から死刑そのものを刑罰から失くし、それに代わる禁錮刑や懲役刑を最大限受刑者に課す傾向が出てきた。これは、受刑者と云えども人権を持つものであり、最小限度の人権は侵してはならないという考え方から成り立っている。
しかし、一方では殺人などの被害を受けた被害者・家族たちの問題もある。
自分の家族や友人を殺害されて、果たして冷静に犯行実行者に更生の機会や刑の軽減を同意できるのかどうか?これは当事者の心境にならないと分からない。
ただ言えることは、例え犯人に死刑適用を科したとしても、侵された犯行による奪われた命は決して戻ってくることはないという冷酷な事実です。

死刑の存続は、残念ながら犯した罪そのものを失くすことが出来ないことに現われているように、犯人を死刑にしても何ら問題の解決にはならない。確かに報復の意味では奪われた命と同等の犯人の命を剥奪することにはなるが、それだけでは「目には目を、歯には歯を」のハムラビ法典とどこが違うのか?

侵された犯罪の「落し前」を、被疑者を死刑にすることにより断罪することが出来たとしても、それは本当の問題解決ではないことを踏まえるならば、今後考えられるべき方法は、死刑に代わる重罪に対する刑罰の方法を新たに考えていくことでしょう。
確信犯については、どんな教育によっても彼らの考え方を変えることは難しいかもしれない。
しかし、犯罪がもたらした被害者への影響について客観的に事実を認識し、侵した犯行の罪を見つめて被害者に謝罪することが必要であることを他ならぬ犯人が自覚しなければならない。

どれだけの月日と、多くの人たちによる関わりが必要であろうと、そうした反省の灯をともすのは受刑者自身の心の中の作業であり、そうした精神的な懺悔が裏付けられた罰則失くしてどんな懲罰も虚しい。

来年から、新しい裁判制度になり、一般市民から駆り出された人達もまた裁判において一役を果たさなければならない時代が来る。
重罪を犯した者に、果たしてどういう刑罰を与えるべきなのか?今後私たちの知恵を絞り出す必要性があると思う。