李大穎 (リー・イン)監督の靖国yasukuni上映自粛について。

no-mu2008-04-01

4月から全国で上映予定されていた映画「靖国yasukuni]が、一連の圧力に押されて中止を余儀なくされている。勿論、国会議員らは試写会を見てこの映画が文化庁の財政支援を受けていることに懸念の声明を出し、上映に先立ち一定の圧力をかけたことは事実です。自民党稲田朋美衆議院議員はこの試写会後に記者会見を行い、国民の誤解を解くと言う名目で以下のような見解を述べたと言う。
1・公的支援なしでこの映画が上映されることについては何の異論もない。
2・文化庁の財政支援について、二つの点で相応しくないとし、一つが製作が日本人による作品とは言い難いこと、二つ目は政治的主張(政治性)が出されていることを挙げた。
稲田議員は、自ら弁護士として、小泉元首相の靖国訴訟においてその弁護を引き受けている人物です。つまり、彼女は靖国問題に於いて自民党を代表してその神社の存在と行事・参拝に関する意義を文字どおり認めている政治的主張の持ち主です。
ところが彼女は、靖国神社の国家との結びつきに反対するグループの主張に対して、政治性を付与しない映画であれば財政支援に意義があると述べている。
自らの政治的見解は棚に上げて、文化庁の映画に対する財政支援を公正にせよと言ってもその道理は通らない。

映画そのものに政治性をなくせと言う見解も意味をなさない。もともと、全ての映画には政治性というものが備わっている。この場合の政治とは、党派的な主張という矮小化された言葉ではなく映画人が作り出す映像文化にはその背景に政治的な側面も含まれていると言う意味にある。映画を作る人の思いと、映画を見る人の思いはおのずと異なるものでありその作品が多くの人に観られ、共に考えられ、共感できる作品と成る為には、安易な政治的主張が盛り込まれることとは無縁である。選挙や党のプロパガンダの為ではなく、人間の生き様、その社会の矛盾や人々の悲しみや喜びをリアルに表現することの中に物語を実感する領域が出来上がる。

この事を理解できる人には、映画作品の中の政治性等はその映画の1側面であり、それ自体をつまみ上げて踏絵をするようなことがあってはならないと信じる。

今回、自民党議員らは文化庁財政支出をやり玉に挙げたが、なぜ日本人の作品なら承認できるのか?何故、その作品の中身ではなく日本人の作品でなければならないという線引きを維持する必要があるのかに応えるべきだと思う。
言うまでもなく、芸術に国境はなく、日本の映画人たちは今まで十分に海外の諸国における支援と恩恵を受けてきている。
その同じ次元で、日本もまた優秀・意欲的な作品に対して財政支援を行うことが何で出来ないことなのか?・・・こんな島国根性丸出しの論理を振りかざす人に、芸術作品を評価する資格はあるのだろうか?

今回、映画が自粛される背景には、それぞれの映画館が右翼等の妨害を考えて、観客に危害等が及ばないための予防策であると報道されているが、映画館側のこの過剰な自粛連鎖が示すものは何なのか?
全ての映画館が中止されてしまう訳ではなかろうが、こうした自粛路線を選んだ映画館側の脆弱性が、今後表現の自由に対する本格的な圧力に見舞われた時に、果たして毅然として上映の自由を貫きとおす理念を維持できるのか不安がよぎる。

まだまだ日本の映画供給側の理念は育っていないと言うべきなのか?
映画が人間の表現の自由を現わしているならば、どんな政治的社会的圧力がかけられようと作品制作と上映の自由を守るのが映画供給側の使命であろう。
今回の靖国yasukuni上映をめぐる一連の中止連鎖は、まだまだ日本の映画界が本来の表現の自由を体現する文化的発信基地とは成り得ていない現実を示しているようです。
・・・情けないことは、未だ暴力的な恫喝もかけられてはいない段階で、不測の事態を恐れて上映を中止する映画館経営者の自信の失われた姿が見えることです。

・・・こうした映画興行側の意識改革なしには、いくら良い映画が作られても、それを大衆の中に深く供給する役割は果たせないだろうと思う。
映画館経営者の猛省を促すとともに、この映画がどんどん人々に観てもらう運動が広がり、他の多くの良い映画の普及に繋がることを希望し
たい。