光市の母子殺害事件の判決について

no-mu2008-04-26

先日の判決では、当時18歳の被告の罪について、情状酌量を与えることは出来ないとして、以前の判決を覆して死刑判決を下した。
この判決に至る裁判では、18歳になる被告を極刑に処することが妥当かどうか?が問われており、従来守られていた年齢枠が今回の裁判では取り払われたことに大きな特徴がある。

重大な犯罪を犯した者については、18歳という年齢を考慮してもその罪を償わせるに妥当な根拠があるとする考え方が裁判所より示された訳です。

これについてはもちろん異論があるが、公的な裁判において極刑として死刑を設定していることの是非も問われなければならないと思う。

この問題を未成年の死刑適用範囲をめぐる問題に狭めるのではなく、重大犯人に対する国家の刑罰として果たして死刑が必要不可欠なのかどうか?が問われている。

死刑の是非については、長い論議と理論の応酬がなされており、簡単にこうした小論で意見を述べることは出来てもその結論は付けがたいかもしれない。しかし、将来の自由な社会において死刑制度がどう考えられる必要があるのかについて意見を具申する意味は少なからず存在すると考えます。

昨今、日本では法務担当大臣の意欲的な采配により、死刑確定者が相次いで刑を執行され現在100人ほどと云われている死刑囚たちがどんどん刑の執行を進められる流れになっている。
・・・世界の趨勢とは逆の方向に現在の日本の裁判と刑執行が方向を変えようとしているなか、来年からは「裁判員制度」が開始され国民の動員の元に重大犯の裁判が裁かれようとしている。
こうした現状を踏まえる時、私たちが死刑制度に対してどういう観点を持つのかをしっかり考えてみることが必要ではないかと考える。

光市事件の被害者家族の本村さんは、「今回の事件で私の二人の家族と被告の生命の3人の命が失われることとなる。これについて、社会の皆さんがしっかり考えて頂きたい。どうすればこうした事件が起こることのない社会を作っていけるのかを・・・」と述べている。
単に報復的な意味合いにおいて被告を許せないこと、死刑に処する以外に重罪を裁く方法が存在しないというだけではなく、犯人の生命についても一人の人間の命として確認しているところが注目される。

しかし、被害者の苦しみと怒りを考えるならば、被告の責任を償う方法が果たして死刑以外に方法がないのか?これについては、彼に質問を問い詰めることは酷であろう。

本村さんに犯人を許す気持ちはおそらくあり得ないかもしれないが、彼が犯人の人間像に迫る過程においてはきっと人間としての触れ合いが何によって結ばれていくのかを知る時が来るように思う。
例え殺人を犯した犯人であろうと、人として認めあう関係が生まれる筈であると私は信じたい。
許しの観点が確認できれば、死刑という制度そのものの必要性を考える場合大きな転換点となるだろうと考えます。

確かに重罪の事実は消し去ることができず、犯した犯行により傷ついた人々の苦しみは何時途絶えるのかも判らない。被害者とその家族の悲しみや苦しみに対してはどんな刑罰もただ虚しいだけの法的結末となる。
本当の意味で被害者の癒しをわき起こす必要を考えるならば、考えられるべきはそれを可能にする為の処罰でなければならない。

・・・かりに殺人事件の判決であれば、犯人の命がある限り亡くなった被害者と家族の為にその傷ついた心と生活を償うために何が出来るのか?という命題を満たしていくことが必要だと思う。そのことは決して死刑という処罰によってではなく、犯罪を犯した者がその命の尽きるまでやり遂げていかねばならない責任において、もっと重みのある事業でなければならないのではないか。

具体的にどうすれば良いのか?今の私にははっきりと述べることは出来ないが、そうした制度は人の知恵を合わせることにより策定は可能だと思う。人類は、いつの日か死刑制度を乗り越えて、新たな刑罰の策定を完成して人としての社会の在り方と責任の持ち方について成熟した法制度を確立する必要があると考えます。
被害者も犯罪者も共に社会の一員としての価値があり、両者を死刑という制度により結び付けてしまうことに大きな疑問を抱きます。被告の命を法により奪うことではなく、法により被害者の命の尊厳を覚醒する道筋こそが求められているのではなかろうか?