男たちは赤紙召集が来ると、万歳三唱の声に送られて戦場へ散って行ったが・・・

no-mu2008-08-18


赤紙召集を拒否するなどということは、当時の社会では許されないことだったという。もし、一人の男が拒否をしたとする。・・・たちまち憲兵に連行されて兵役拒否の罪により監獄に放り込まれ、暴行の限りを尽くして痛めつけられることは間違いない。あることないこと、男から情報を引き出してその男に徴兵拒否のレッテルと「非国民」の烙印を押す。
またそれだけでは収まらないだろう。家族親戚全ての者が呼び出され、なぜ彼がこういう態度をとったのかを片っ端から調べ回される。もし、家族の誰かが彼を擁護し、兵役拒否の正当性を弁護しようものなら、たちまちのうちにその者も捕えられ拷問を受け、個人が持てる主義主張を聞きだし「赤」のレッテルをはりつけられ社会的な地位を奪われ、職場からも放逐されることになる。かくして、その家族は世間から隔離され、「国俗」という名の社会的な制裁を加えられることとなる。こうなると、その家族は社会の中で「村八分」となるだけでなく、社会の中での生存権をも奪われることになる。・・・今騒がれている「いじめ」どころではない。人間としての存在が否定される中では、裁判等の判断を下すまでもなく、社会から抹殺される運命が待っている。
・・・これだけの想像力を働かせるのは、そんなに難しいことではない。
当時の社会主義者共産主義者などは、何時右翼の暴漢に襲われるか?命の保証はない。・・・いや、主義主張はともかく、国家が遂行する戦争に反対することが許されない掟がしかれている。軍部の判断に対して異を唱えることが許されないために、軍の独走を止めるシステムが機能しない。

当時の社会では、戦争に反対したり、兵役を拒否したりすることは社会全体に対して戦うことを意味している。・・・この場合の社会とは、戦争を遂行するための社会、戦闘継続だけが正当であり自国の利益と主張だけが絶対正義であり、それに反対する勢力は全て非国民であるということになる。
この戦争が例えどういう方向をたどろうとも、命令には絶対服従することを求められる。
この論理には個人の意見は通じない。
個人の価値観はもぎ取られて、国家の価値だけが絶対視される。こうした全体主義の社会では、個人の考え方は二の次とされ、国家が示す計画のもとに個人が動員され命も含めたすべての価値を国家に預けなければならない。個人の命を国家が好きなように扱うことが許される体制においては、人間性についてはその価値が貶められ、軍隊の上下関係から下される命令を守ることだけが求められる。

自分の命を国家の為に捧げ、危険な戦闘の中に自らをおき、敵の軍人や民間人を容赦なく殺戮することが求められる。ここでは、普通の社会で求められる人間的な感性と価値観は全て役を果たさず、非人間的な上官の命令だけが優先して尊重することが求められる。

先日のフィリピンレイテ島の戦いについてもう少し触れておきたい問題がある。
後方支援を断たれた当時の日本軍は、地元住民の生活資源を略奪したことについて触れたが、敗走につぐ敗走でジャングルに追われた日本の敗残兵たちは、食料を事欠きジャングルに生きている動植物を何でも食料とした。トカゲや蛇・カエルなど生きているものは何でも食にしたという。
最後に起こった出来事は人肉を食すことです。飢え死にをするか?それとも人間を食べるか?その選択肢の中で、生き延びる為に人肉が同じ日本軍により食にされたという。
こうした究極の行為に対して、現場に居合すことがない者は何とでも評価を下すことは出来ようが、生き抜くために人が人を食べるという行為をどう考えれば良いのでしょうか?
ある弱り切った兵は、「俺を食って生き抜け。おれの肉を食して、生きてゆけ」と周りの兵に声をかけたという。
人肉を食すという、人間が超えてはならない領域を一旦踏み越えてしまえば、もうタブーは破られて怖いものは全て取り去られる。
恐らく、レイテの戦いを生き延びた人々の多くは人肉を食べて生き延びてきた人達であろうが、そうした人たちを誰が責めることが出来ようか?

戦争の究極の姿がレイテでの人肉食いに現われていると思うのです。
この戦争を遂行させた主導部の責任は明らかですが、過酷な戦場で生き抜き、闘い抜く兵士たちの声を私達はどこまで聞くことが出来るだろうか?
彼らは、表面的には天皇陛下の為、国家の為に命をかけて戦い死んでいったが、本当のところ米軍が憎くて戦っていたのだろうか?何の為に戦っているのかを彼らはどう自分に刻み込んだのか?彼らが憎しみを覚えたのは、自分たちの仲間を殺害した行為と自分も殺されるかもしれないという恐怖心が、敵兵に対しての憎しみを増幅させたと言えるかも知れない。
恐らく白兵戦においては、普通の人間としての感性は無くなり、遣るかやられるかという狂気の感性だけが研ぎ澄まされることとなる。

そして、今考えるのは人肉を食す行為のことです。飢えた兵士が手当たり次第に人間が食べられるものを食し、そうしてこそ生き延びることが出来る。人肉を食べることをしなかった兵士は、やがて力つき、倒れ息絶えてゆく。・・・そして、その兵士の死体が放っておかれればすぐさま蛆たちが人間の体を蝕むことになるが、それまでにその肉を食べたなら、生き延びることが出来る…そんな人が人を食う誘惑に抗することが出来ない者たちは、一線を超えて人肉を食した。
・・・こんな、ぎりぎりの飢餓状況に置かれた兵たちの行為を、常識という枠だけで括り評価をしても、果たしてどれだけの意味があるでしょうか?
むしろ、こんな戦場に兵を放置し、何の責任ある指導もなくただ兵を無駄に戦死させ、飢餓状態の中に陥れた軍の指導部の無謀さが、どんなに非難されても仕方がないと思う。

日本軍の戦いの多くは、こうしたレイテの戦いに象徴されるような不可解で無謀な戦いを強いられた戦いであった。軍隊としての統制もなく、民間人に危害を加えないという配慮は蔑ろにされ、現地の住民に対しては略奪を繰り返して、反抗する者たちを虐殺し、負けを負けとして認めない泥沼の戦闘を継続した。弾薬などが無くなれば、無謀な突撃を繰り返して命を捨てることが、美徳とされそれを強制された。・・・こうした戦争の事実を、私達はどこまで知っているのだろうか?
戦争の生死の中を潜り抜けた人たちは、そろって口にする。「平和が良い。戦争はもういやだ。もうあんな時代は忘れたい」と。
しかし、何故あのような膨大な残虐性を持つ戦いに向かって、当時の日本社会が国を挙げて賛同し突入していったのか?という問いに、しっかりと私たち日本人は答えなければならないのではなかろうか?
当時の指導部の誤りと責任は重大であるが、それに賛同し反対することなく従っていった日本社会というものをしっかり見極める仕事が、私達には残されていることを今一度確認したいと思うのです。こうした反省なしには、本当の意味で64年前の戦争は何であったかの問題を解くことは出来ないと考えます。