フィリピンレイテ島の戦い。

no-mu2008-08-16

昨日、ドキュメンタリー番組でフィリピのレイテ島での日本軍の戦いの歴史が紹介されている番組を見た。この時期になると太平洋戦争の、当時のフィルムが公開される。とくに戦争経験のない世代にとっては貴重な情報だと思う。60余年前の戦争は、もう大昔のことの様に誤解しているかもしれないが、今なお当時の戦争体験者は鮮烈に記憶を残している。人間の記憶はどんどん遠のいて、忘れ去られてしまうかもしれないが、実のところは、本の半世紀ちょっと前に現実に起こっていたことなのだと考えてみれば、いかに人間の記憶というものが忘れやすく忘却されやすいのかを知ることが出来る。

レイテ島の戦争では、日本軍で約8万人が亡くなり米軍も多大な犠牲を追ったという。・・・悲惨なのは島の住民たちが何万人も殺されていることです。日本とアメリカが戦争をして自分たちの住む島で勝手に戦いを繰り広げ、家を焼き田畑や家畜を破壊し、老若男女数万人が殺される…こんな非道なことを戦争はレイテの人達に強いたのです。

特に、日本軍は後方支援がなく食料などに事欠いていたから住民の資産を根こそぎ略奪して回ったので、住民からは憎しみを買い、米軍の支援により渡された武器を取ってゲリラ部隊が組織され日本軍に抵抗したという。戦争末期では、逃げ回る日本軍をゲリラ兵士らがとっ捕まえて片っぱしから制裁の銃弾を撃ち込む・・・こうした凄惨な「日本軍刈り」が行われたという。自分たちの家族や仲間が日本軍に殺害されている憎しみから、ジャングルをへとへとになって逃げ回っている敗残の日本兵が捕まっては虐殺される・・・こうした結末を誰も制止することは出来なかったらしい。

その中である村の女性が証言していた挿話で、ふらふらになって食料を求めてきた日本兵に食料を手渡すと、その日本兵が一枚の写真を見せて、「自分の家族だが、これを日本に送ってくれ」と懇願されたことがあると証言していた。恐らく、もう自分は日本に生きて帰れないかもしれないが、故郷に居る家族(その写真には奥さんと二人の子供さん達が映っていたという」にせめて自分はレイテで生きていたことを伝えたい、という最後の願いを伝えたかったのかもしれない。
女性は、その弱弱しい日本兵の姿が哀れで生涯忘れなれない、と語っていた。
故郷に家族を持ち、自分の意志ではなく国家の強制により兵隊に徴兵され、生きて帰れない戦場に送られ、食べる者も与えられず、ただひたすら「お国の為に」戦うことを強制され、逃げることは決して許されず自分の命が尽きるまで敵兵と殺し合うことを強いられた兵隊たち・・・
こうした戦争の実態がまざまざと感じられる光景が思い浮かぶ。
当時の日本軍の中で、米軍が憎くて戦いに参加した兵士などおそらく一人もいなかった筈だ。軍の指導部により強制された憎しみを植え付けられ、命令としての殺人を教えられて実行し、自らの仲間が戦死する中で過酷な状況を生き抜き、やがて一人前の職業軍人として冷酷な作戦を自ら進んで実践する…こんな人間の姿を、私達は冷静に見つめていかねばならない。

戦争は、特別の人々が実行したものでもなく、普通の庶民たちが巻き込まれて作り上げる社会的な大犯罪です。何千何万の人々を殺戮することがどうして犯罪にならず、一人二人を殺害する行為だけが罪に問われ処断されなければならないのか?誰が考えても不合理です。

太平洋戦争にて、日本は何百万の戦闘員・非戦闘員を含めた犠牲者を出した。あまりにも大きな犠牲です。日本軍が近隣のアジア各地で繰り広げた戦闘行為等で、やはり何百万の人達を殺戮し国土を破壊した。この責任は、当時の戦争指導者はもちろん、参加し賛同した国民一人一人にもあることを私達は自覚する。こうした反省と悔恨は、何時までも忘れてはならないと思います。

当時の戦争体験者たちは80代から90代になっている。彼らは今多くを語らないが、体験した語りつくせない事実が後々の世に忘れ去られてしまうことを望んでいるだろうか?と考える。誰も苦しく悔しかった体験を再び呼び起こそうとは思わないかもしれないが、それが無意味であったとは思いたくないだろう。
天皇陛下」の為に命を捧げることが、当時教え込まれていた。そこにどれだけ価値があったのか?今誰も自信を持って断言出来はしないだろう。
そんなもん、関係ない。おれは「お国のため」に死んだりはしない!
そう啖呵を切ることは簡単だが、当時そうした兵役を拒否する道を選べなかった人たちに対して、私達が言えることはそれだけなのか?当時の人達の思いを、本当の意味で共有し、その中から戦争を再びしない「非戦」の思想というものを育んでいく必要があるように思います。

テレビをひねればオリンピックの模様が繰り広げられる毎日ですが、偶にはこうした戦後63年目の自分なりの振り返りをしてみることは有益だと思う。