民間犠牲者に対する補償を求める運動

no-mu2008-09-20


63年前日本は、米軍の攻撃が迫る中、国民は否応なしに本土決戦の準備に包まれつつあった。軍部が勝手に始めた戦争に、日本のすべての人と資材を駆り出し、拒否することは許される環境がなかった。もし一人でも軍部の方針に反対する者がいたら、親兄弟親族を含めての村八分に立たされ、「国賊」と中傷されて社会から深刻な差別を受けることになる。
このため、戦争反対を口にすることができず、国家総動員体制への惜しみない協力が強制される社会が人々を包み込んだ。
もちろん自発的に戦争に参加し命を投げ出した人たちもいたであろうが、天皇陛下という絶対的な権威のために、自らの命をささげることについては、なぜ疑問を挟むことができなかったのか?現在の私たちには想像できない心境と云えます。・・・もし、自分がその時代に生きていれば、同じようにお国のために死んでいったのだろうか?
そうあってはならないと思いますが、普通の民主主義が認められていないファシズム権力に反対するためには相当の決意と信念がなければ時代の権力と戦うことは難しいだろうと思う。
その意味で、当時戦争に協力し、軍の命令に従って行動した大多数の人々を責めることは出来ないと思う。

しかし、だからと言って当時の日本の在り方を肯定することはあってはならない。なぜあのような無謀な戦いと、批判が許されない軍部の権力が確立したのかを検証し、再びあのような戦争が起こらない社会を目指して今日の社会を作る必要がある。しかし、現実には米国と同盟関係にある強力な軍隊が既に存在しており、憲法で謳われている戦争の放棄という文言は今や事実上の空文と化している。

こうした状況で、先日大阪空襲に関して国家の賠償を求める訴訟が始まったことが報道されています。
これは、1944年から45年にかけて、東京に次いで大阪の街は50回近くの空襲に見舞われた。その犠牲者として、約15000人が亡くなったとされている。
国はこうした空襲による犠牲者と負傷者に対してなんら保証をすることなく放置してきた。軍人やその家族に対しては遺族年金など戦争による犠牲をねぎらう補償金などが出されているにもかかわらず、民間犠牲者については一切国としての保証を行ってこなかった経緯がある。

同じ戦争でかたや軍人に関しては手厚い補償を続け、かたや民間人には何の保証もしないという国の責任の取り方は誤りであり、すべての戦争犠牲者に対する誠実な慰労と補償を今からでも行うべきであると考えます。
87年最高裁は、訴えていた名古屋の女性二人に対して「戦争犠牲ないし戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところ」という冷たい文言で国の責任を司法判断として否定した。しかしその後神戸地裁が06年、中国残留孤児訴訟において、この「戦争犠牲受忍論」を理由に賠償責任を認めようとしない国の姿勢を否定した判例を言い渡した。これは司法判断の180度変更の機会を作り、間もなく東京での空襲犠牲者の訴訟が開始され、今日大阪での訴訟につながっている。

沖縄でも夥しい民間人を巻き込んだ米軍との戦闘が始まっていたが、本土では空襲による無差別殺戮が繰り返されていた。
広島長崎の原爆が投下され、8月15日にやっと天皇の放送により終戦となったが、その前夜まで激しい爆撃が日本の都市に向けられ人々が犠牲になっていた。
もっと早く指導部が連合軍の勧告を受け入れて戦争を終結させていたならば、死ななくてもよかった人々の命が沢山あったことを忘れるわけにはいかない。

今はもう63年前の出来事ではあるが、こうした痛ましい戦争の歴史と教訓を、私たちはいつも胸の奥に刻み平和への誓いを新たに持って行きたい。

今月末にも原告団を結成し、開戦から67年となる12月8日の提訴に向けて準備を進める大阪での裁判について、私たちはしっかり見守り応援をしていかねばと思う。