わが国でも増えてきた“ゲーティッド”型住宅について。

no-mu2008-10-13

日本は平和国家と言われている。確かに国内で戦争状態や、武力での対立等は存在しない社会だと言われている、本当はどうか?
だからと言って治安状態が安定しているか?というと、否定的な見解を感じる人は多い。社会に反発し、犯罪を実行することを厭わない人間が不特定多数存在することは確かでしょう。でも、彼らは母親から生まれた時から犯罪人と烙印が押されているのではなく、家庭や地域・教育環境などに刺激され後天的に身に付けてきた経緯が存在する筈です。

社会の中に、治安回復のための自浄作用がシステムとして組み込まれていれば、たとえ犯罪を犯した人が出てきてもより小さな間違いにとどめて更生していくことが可能です。
しかし、現代の日本では、犯罪者の再犯率は極めて高く、一度間違いを犯した人に対するサポート体制が不十分であることが指摘されている。
もし、現在日本において安心した社会を築くためには、こうした犯罪の再犯を防止するシステム作りを根本的に再構築する必要があると思う。こうした改革のためには、社会の中の地域で取り組んでいかねばならないことも多々ある筈です。ところが、現在の日本の社会は、更生に対する理解が乏しい。精神疾患を患う人たちに対するサポートも不十分です。
日本の社会自体が脆弱なのは、こうした社会的「パージ」をこうじられた人たちに対する受け入れ度が低いことにその原因の一端を観ることが出来る。

こうした”疑似平和国家日本”において、興味ある傾向が報道されている。・・・それは高いフェンスと赤外線センサーに囲まれた、安全地帯としての住居を高額で購入して暮らし始めている人たちが増えているということです。
一目で分かるような特殊なフェンスに隔てられて、その中に入るためには身分証明や訪問要件の確認がなければ中に入ることが出来ない。
住居を含めて、一定の生活地域として、限られた住人だけしか中に入れない、こうした“ゲーティッド”は、いま静かなブームを呼んでおり、1億円から十億円の高級住宅から、四・五千万円のものまで販売されているという。いずれも、地域の一般住宅よりははるかに高い値段が付けられているが、それはセキュリティーのための設備投資等の費用だという。
ゲーティッド”内で子供たちは遊ぶことを限定され、自由に子供たちを呼び入れたり交流する自由はない。

こうした安全を優先したセキュリティーのための社会との分離化については、地域からも様々な反発が出ており、同じ法治国家に住んでいるのに部外者との自由な交流を絶っていることに対する評価は分かれている。

米国では、こうした住居群は沢山作られており、そもそも住居の広さが日本と比べ物にならない。狭い国土に分けて住んでいる日本で、こうした“ゲーティッド”が増えることについては議論が分かれると思われるが、現実にこうした物件が売れており建設が広がっているところに現在の日本の一つの流れを読み取ることが出来ると思う。

お金を積み、高い柵を立て、セキュリティー会社の見回りを日常的に行わなければ安心が得られない・・・こう感じている人が沢山出てきている。
大多数の人達は、同じ不安を感じてもこうした割高で高級な施設を購入してその中に住むことは出来ないが、一定の資産を持つ人たちには、そうした住居を購入することが可能であり、この厳然とした分かれ目とは一体何であるのか?

社会を改革したり、地域の安全を住人の協力により築いていくことが軽視されている。
本当の安全とは、こうした一人一人の協力と支えあいの中から生まれてくるのに、お金と財力で強制的に安全地帯を作って立て篭もる・・・こうした発想は、本当の意味での安心足り得ないことを、その柵の中に住む人たちは知ろうとしない。

エルサレムや中東の構想地帯で、相戦う人たちの生活を遮る壁があることは知っていたが、日本でもこうした柵と監視により自分達の生活圏を分離している地域があることをしりその事実に愕然とするのは私だけであろうか?
人を見れば自らを傷付ける可能性を疑い、不特定多数の人達との触れ合いを拒絶し、安全地帯での生活を選択する人たちは決して社会そのものの改革には手をかさないでしょう。

根本的には、自由という者の概念が、著しく狭い意味での理解により自分とその家族さえ安全であれば後はどうなっても意にかえさないという個人主義がはびこっていると思う。こうした傾向が増えれば増えるほど、社会的に作り出される不安定性は解消さず、解決は遠ざけられる。

ゲーティッド型住宅の増大で思うことは、こうした”分離化政策”により人間生活の安全は実現するのもではないこと、社会の矛盾を見つめてその根本原因を解決していくための政策の実現こそが求められていると思う。
昔は、町内や長屋の大人達による、おせっかいな声かけが日常的に存在し、悪さをする子供たちは常に「しつけ」としての叱りを受けていた。
地域住居の中に、人々が平和に暮らすための支え合いが存在していたのです。
しかし、現代社会は、マンション生活一つをとっても隣近所の人たちとの交流は殆ど行われていないのが現実です。
お金をかけなくても、もっと自分たちの暮らしを不安なく過ごしていくための工夫は存在しているようにも思います。

秋晴れの青空に向かって、まばゆく咲いてます。

これは9月のスナップですが、双子の朝顔です。

淡い色のこの花、何と夜中まで咲き続けていました。朝顔の最後の執念を感じました。

街路樹の赤い実に、秋の気配を見つけました。