秋の深まりとともに、何だかメランコリーな気分が・・・

no-mu2008-10-26

●私の家のベランダにある朝顔も、とうとう終局場面を迎えつつあります。
もう、すっかり冬支度が進み、茶色に変色した葉っぱが増えてしまい、殆ど花を咲かさなくなって、種取りの時期が来ています。今日が雨なので、お天気なって乾燥が進めば一気に種を取ろうと計画しているのですが、まだ青い種を付けている部分も残っているので、あわてる必要はないでしょう。

●この時期、花達の賑やかな色合いが消えてしまい、蔓を片づけてしまうと殺風景な風情になってしまい、何とかならないものか?と思案しています。
冬の時期でも、もちろん目を楽しませてくれる花達はあるでしょうが、何せ朝顔しか植えていないので、多品種に踏み込めない状態です。
ほんとは、いろいろ季節に応じた花達を植えれば、1年を通じて楽しめるはずだと分かるのですが、まだその決断が下せないことと、何故か自分でも分からないのですが、朝顔に拘っている自分があります。朝顔以外の花に興味がないとは考えないのですが、まあそのうちやり始めることになるかも?

●何故だか分かりませんが、朝顔達が季節を終えてしまうと自分も「ポカーン」と空白地帯の様な気分になるのです。時には夏から秋にかけて撮った写真を見ながら過ごすこともありますが、やはり飽きることがありません。・・・朝顔のどこにそんな魅力があるのか?自分でもよく分かりませんが、言葉にすると変ですが、花の「清純力」のようなものを感じるのです。
自分がどんな気分であっても、落ち着いた気分が取り戻せる、朝の仕事として朝顔達に水をやり、バッタたちと話をすると「ああ、君たちも生きているんだね」という気持ちになる。
朝咲きだして、お昼時分には萎んでしまう花達ですが、それでも粛々と彼らは自分たちの生命活動を遂行している・・・そんな姿を見ることにより、自分の中の無意識の心の部分が豊かに花達と共鳴しているように思うんです。

●よく聞く話ですが、「私は毎日花たちと会話してますよ。きれいに咲いたわね。今日も元気。」なんて独り言を言いながら、会話をする。それが花達にも通じているんだと・・・
ひょっとすると、そのニュアンスに近い部分の感覚かもしれないけれど、僕の場合は観るということの中に、その花達・植物達・昆虫達との繋がりがあるように感じています。ただ、一定の距離を大切にしたい。彼らの生息に干渉することなく、しかも彼らがどうすれば気分良く毎日を過ごすのか?それを頭に入れつつ見守るようにしている。
出来るだけ人間の勝手な思いで彼らの活動を制限することなく、見守る姿勢が必要だと思う。だから、バッタたちが好きなように花を食している姿を感心しながら見せてもらっている。彼らの旺盛な食欲は、朝顔達と共生しているようにも見える。確かに朝顔にとっては咲かせる花や葉っぱを食べてしまわれることとなり迷惑なことかもしれない。でも、ちゃんと一夏を過ぎ秋の終りまで、彼らはともに共存していたのですから、僕はそのままが良いと考えた。もし、バッタが猛烈に繁殖してことごとく朝顔達が食べられてしまってその生息が制限されるような事態になれば何ら中の介入を考えるかもしれませんが、今のところその必要性はないようです。バッタたちにしても、もしこの朝顔の茂みが窮屈なら飛んで行って街路樹などに住み着くことだってできるだろう。このベランダに住み着かなければならない決まりはないわけです。でも何故か彼らは、ここで安心して暮らしているように見える。時には鉢などが飛んできて、彼らを追い払うような行動をとっている場面を目にしているが、それでも蜂の巣さえ作らせなければ、ここはバッタ君たちの安全地帯となりえるようです。
・・・バッタたちがどこに冬支度で冬眠するのか?卵を土の中にどうやって隠しているのか?その辺は分からないのですが、どういう訳か春朝顔達が茂りだすと住み着くのです。
まだまだ分からないことだらけですが、我が家のベランダでは朝顔とバッタが共存地帯となっています。