もうすぐ3月10日がやってくる、東京大空襲の惨禍を忘れない。

東京大空襲訴訟(東京地裁)では、今年1月に証拠調べが終了し、5月に結審して判決が言い渡されることになっている。
原告132人は、すでに高齢となり64年前の古傷に疼きながら今度の判決で国家による救済宣言がなされることに希望を託している。すでに亡くなってしまった人たち、・・・彼らは米軍の作戦によりまるで虫けらのように命を奪われその保証もされずに今日まで時を刻んできた。
軍人たちは、戦死すれば、靖国神社にまつられ彼らの遺族は末永く保証を受けることが出来る。
しかし、民間人は違う。空襲等で焼き殺され、機銃掃射で銃撃されて死亡しても何の保証もされはしない。戦争の中で民間人が焼き殺されようと、それは国家の一員としては等しく戦争被害を受忍しなければならない、とされる所以である。

しかし、こんな不条理な理屈が未だ日本の社会では通用している。
日本の司法当局は、未だに戦争被害受忍論に立脚した判断を正当としており、おそらく今度の裁判でもその是非を巡って判決が述べられることとなる。
国際的な裁判過程でも、日本のような司法判断は極めてまれな偏った判断として分類されている。職業や人種により同じ体験をしても違った評価がなされ、戦時下においては一般民衆がどれだけ悲惨な体験を持ち危害を加えられても、それは受忍するほか無いとされる・・・
64年前の東京大空襲では、10万人以上の人々が、訳もなく米軍の焼夷弾攻撃で焼き殺され、生き残った人々は住む家もなく路頭に放り出されることとなった。
こうした民間人をターゲットにした攻撃を、米軍はどんどん加速化させ、全国の主要としては同じような民間人の虐殺が日常化することとなる。

戦前の軍部を信奉する内閣が聞く耳を持たないことについては、なるほどそんな考え方だったろう。と認めることが出来ても、現在の司法判断にまで戦争受忍論が忍び寄っているとは極めて不思議とおもう。なぜ司法は国家の責任を明らかにせず犠牲になった人々に対して謝罪をしないのか?

5月の裁判がどういう内容になるのか?注目されるところだ。

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