「悼む人」天童荒太を読んで感じたこと。

小説を読む前に、何故この本を読もうと思ったのか?考えてみた。
直木賞を受賞したことだけでなく、NHKの番組で紹介されたことだけでも無かろう。作者の天童荒太という人柄に興味を持ったというのが一番的確のような気がする。受賞の時に、気の利いた謎かけをして笑わせた人が、いったいどういう物語を書いたのか?気になった。
読んでみると、400ページを超える長編だが次第に登場人物に親近感が湧いて「次はどうなるのか?」楽しみにして読み進んでいる自分がいることに気が付く。
坂築静人の悼みの旅が続けられる中で、冷ややかに冷笑する人々の中から彼を擁護しようとする人々もまた登場する。
沢山の死者を覚えるために、もう5年以上旅を続けている静人にも、奈義倖世 と言う同調者が出来る。
彼女は殺人を犯し、自分の夫を刺殺した犯人として社会から見放された存在だと自認している。4年の刑期を済ませて出所し行く当てもなくさまよう中いつ死んでも良い存在として自分のことに絶望している。ところが偶然に静人と遭遇する。夫の亡霊に日夜苛まれつつ次第に静人という男に興味を持ち始める。「この男にならば、真実が語れるかもしれない」こう思った彼女は静人の悼む旅に同行して旅を始める。・・・ところがそんな彼女が死に場所を求めて自殺直前に静人に引き留められ「 自分を覚えていてくれる男」が目の前にいることを知り感動する。一方静人の方も数奇な人生を語る倖世に対して特別の感情を抱くようになる。
・・・やがて二人は恋に落ちるが、悼む旅を別々に進める決意をする。それは、お互いを拘束せず、お互いのことを常に覚え、生きていこうとする決意だ。
ここで初めて悼むことに対する作者の希望をうかがい知ることが出来る。

・・・もし作者が、奈義倖世 を自殺させてしまうストーリーを綴っていれば、おそらくこの物語は霧が晴れない春の空のように灰色のイメージが悼むというテーマとなって色づけられることになったと思う。しかし実際には、女は静人により救出され、自立した悼む人として一歩を踏み出すようになった。おそらくこれは作者の祈りであったのかもしれない。

静人の母親坂築巡子は最後に自宅にて長女美汐の産む子供の産声を聴きながら息を引き取る場面がある。病院でのがん治療継続を望まず、延命治療を拒否し自分らしく自宅で最期を迎えることを選んだが、一つだけ気がかりなことがあった。・・・それは長男の静人が旅に出たまま戻ってこないことだった。もう余命幾ばくもない日にあっても、息子は必ず帰ってくるという願望を捨てなかった。
彼女が意識を消失する場面で、赤ん坊の泣き声をかすかに聞き取りながらあの世へと旅立つ描写がある。誰もが一度は死んでいく経験をするのだが、こうした死んでいく人の側にたって死へと旅立つ場面を描いているのが大変興味深く思われた。
また、この物語では倖世の夫朔也が、亡くなってからもしばしば亡霊のように倖世の側に出没し、登場人物と会話をし議論をする。・・・こうしたことは、実際には起こらないことであるが、あえてそれを登場させるストーリーが最初は強引で馴染まぬ感覚を抱かせる。しかし次第に引き寄せられてしまうトリックがうまく仕掛けられている。
朔也の人物像は、あたかもドフトエフスキーの登場人物のように底深い絶望感を抱いている人物として描かれ、愛する妻に自分を刺殺させる筋書きを夢想し、実際に妻に殺人を誘導した。何故こうした虚無的な思想を抱いているのか?自分を愛する妻に殺人者としての役割をさせようという発想は通常の想像力を超えた欲望として移る。彼の2重人格が行き着くところは破滅しかなかったのか?この点については読者が想像するほかない。

本来、人の死が沢山描かれる読み物は読む人の心に少なからぬ重さと疲れをもたらすものだと思うが、不思議とこの物語を読み切った後には重苦しさは残らなかった。
現実には存在しないであろう「悼む人」に対する親近感がいつの間にか自分の心の中に育っていることに気が付いた。

・・・もし、現実にある道ばたなどで「悼んでいる人」に遭遇するとすれば(そんなことはあり得ないだろうが)、自分は何の気後れもなくその人とともに跪いて頭を垂れることが出来ると思う。人に愛され、人を愛し、身近な人々に感謝されて生きていた人物がいたことを、自分も悼んでいける人となりたいと思う。ただし、主人公のように悼みの旅ではなく普通の一市民としての生活を続けながらです。
こういう素直な気持ちを再発見させてくれたのは、この本を読んで何かを感じてきたからではないか?と感じている。
天童さんの、今後の作家活動に注目していきたい。

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