升永弁護士の「簡単な方法」について。

先日、朝日新聞のThe Asahi Shimbun Globeに書かれていた記事に以下のような意見が載せられていたのを覚えておられる人も居ると思う。
1票の格差をなくし、日本を民主主義国家に変える「簡単な方法」がある。・・・その方法を、今まで日本の有権者は自ら自覚せずどぶに捨てていた。しかし、ひとたび1票の格差を知り、その現状に対して意義を持つのならそれを投票の中で示すべきである。

 最高裁の国民審査について、殆どの有権者はそれが何をチェックするのか自覚していない。しかし、一度都市に住む人々の1票と農村の有権者の1票とでその重さが厳然として格差が付いている事実を知らされれば、現状の制度を正しく民意が反映されていない制度として認識することが出来る。そうした制度を良しとしない裁判官を選び、逆に現状の制度を擁護する裁判官について不信任を突きつけることが出来るはずだ。此が現状の制度の中で、最も効果的に民主主義を守る方法となる」

だいたいこのような意見を載せられていたと思う。
現在の選挙制度を作ったのは、自民党を中心とする戦後保守政治の「財産」として残されたわけであろうが、それをいったいいつ誰が作り変えるのか?黙っていてはいつまで経っても現状の不合理な格差は縮まらない。
しかし、もし有権者が目覚めて最高裁判事の中の相応しくない人々について不信任を突きつけ、選挙制度の改革を促すことが出来るなら、民主主義の精神が実際に生かされた形で改革がなされていくだろう。

問題は、日本の有権者が、この裁判官に対する厳しい審判制度を有効に活用することが出来るかどうか?このことが次の総選挙において問われている。
選挙では、とかくその時々の政治グループや正当の浮き沈みに関心が当てられるが、裁判官の信任を問うこうした審判制度の意義をどれほどの人達が自覚しているのだろうか?

考えてみれば、私の場合殆どの裁判官を不信任とする投票をしてきた。それは現状の裁判制度が、権力を持つ者に対してあまりにも好都合な判決を量産しているからだが、それぞれの裁判官に対する情報量自体も少ない。今後はもっと多くの情報を公表することにより、国民がその審判を下しやすいような配慮をもっとすべきだと考える。

司法がもっと国民に信頼される司法制度たり得たなら、きっと様々な政治改革を促す流れを作り出す原動力になっていくに違いない。
司法自体は決して現状を改革する先頭に立つことはないだろうが、事態を変革しようとする人達や運動を擁護する法的根拠を整備する。このことが、民主主義の土台を強固に固めて行くに違いない。