"異文化としての老い”を考える。

久しぶりに、三好春樹の本を読む機会を得た。
講談社から出ている、「介護の大誤解」というタイトルですが、さすがに三好さんらしい発想の本です。

介護の大誤解! (介護ライブラリー)

介護の大誤解! (介護ライブラリー)

開いていくと、誰でもが読み進みやすい構成になっており、小見出しがページごとに掲げられていて、一つ一つが独立して介護の“小咄”として書かれている。
内容が簡潔に書かれており、当たり前とされてきた介護の常識について、三好さんなりのコメントと、新しいスポットライトが照らされている。

今日その中で、以下のような事が書かれていて、考えさせられた。以下紹介してみたい。

『「異文化としての老い」を認めることからケアを始めよう
・・・それぞれの国や地域にはそれぞれの文化があって優劣は付けられない、ところが、専門家の中にも自民族中心主義を振りかざして未開の地域の文化を遅れたものと分類する学者達がいる。
彼らは、それぞれの文化が相対的な価値を持っている事を認めない。

此と同じように、介護の世界でも、老いというものについて、老人の価値観自体を病理学的に判定して、遅れているもの、衰退しているものとしてとらえている人達がいる。
しかし、こうした考え方からは、本当の意味での老いに対する理解は生まれないのでは無かろうか?

私たちに必要なのは、異文化としての老いを認め、それを楽しみつきあう事なのです。』

以上のような、コメントが”介護の新常識”と称して書き留められている。
この見解には、いろいろご意見があろうか?と思うが、三好さんの思いきった過激な見解に対して頷いている自分が居る事を自覚している。

正常な人達、つまりまだ老人になっていない人達が、あれこれ老人達の分析を積み重ねていっても、得てして老いる事の粗探しに陥る事がある。
やれ、あれも出来ない此も判らない、何をやる意欲もなく、ぼおっとしている・・・
こうしたネガティブな表現ばかりが目立つ。
しかし、老いの側について問題を見つめてみれば、別の価値観として老いる事の世界が広がっている事が判るはずです。
・・・筋が通っていなくても、事実が誤認されているかもしれないが、その人が由としている世界観があるのです。
老いの世界は、決して他者を排斥するのでもなく、支配するものでもない。ただ、ちょっぴり自分勝手であるかもしれないが、ありふれた我が儘を楽しんでいるようなものに思える。
成人としての権威や俗世間の肩書きに関係なく、好き好きに残された人生を生きていこうとしている姿が見えてくる。
多少愚痴っぽく、自己顕示欲が旺盛なお年よりにも遭遇するが、多分彼らはその自慢したい内容を大事に大事に抱えて生きてきた人生を持っている、ならば、少々聞き飽きた自慢話でも、我慢して繰り返し聞いてみる価値もあろうと思う。

ケアマネジャーの仕事をしていると、お年寄りの話を聞く機会が常にある。それぞれのはなしっぷりに相づちを打ちながら、その人の心から出てくる思いを聞き逃すまいと発言の趣旨を頭の中の記憶装置に入れているが、どうしても理解不能な言葉がある。どう考えても、つじつまが合わなかったり、理屈に合わない事を云われることもある。
でも、今後は、そうした語りに対して、それぞれのお年よりの『異文化』として受け止めてみたい。
否定することなく、その人の感性として受け止める事が出来れば、それで十分であろう。
その人らしさとしての言葉を認めていけば、例え話の内容に無理があっても、そうした事が語られる事は認める事が出来る。
話されている内容に同意できなくても、それを話しているお年寄りを受容する事は出来るはずだ。
話すお年寄りも、相手に話を聞いて貰えば、それで半分は問題解決なのだから・・・論理的に間違っていようと、事実誤認があろうと、それはそれで老いから発せられた言葉である事を認めたい。

異文化である事を認めていけば、今まで許す事が出来なかった存在と言葉に対しても、柔軟性のある対応が生まれてくるように思う。
本当のケアーとは、こうした対応力が備わっている事では無かろうか?
・・・自分が年老いて、立場が逆転したとき、自分の話をしっかり聞いてくれる相手が居れば、きっとそれだけで満足できるだろうから。