戦争をしない、させない、人間の知恵と行動を一つに!

○思うに、人間の歴史は戦争という戦いを伴う真っ赤な血で彩られた連続でしかなかった。
生まれ育つ中で、人を殺傷することが生きがいとなる者はいないはずだ。しかし、現実には軍隊による交戦、人々による殺りくを伴う争いが絶えない。

こうした人間の歴史を思う時、そもそも暴力を伴わない、人の争いをなくす意味での平和の理念は、現実にはその実現ははなはだ困難であると言わざるを得ない。

○国家が先導する戦いとしての戦争は、個人の意思を超越して国家の意思として遂行されることとなり、多少の人的な殺戮をやむを得ない作戦行動として正当化されてしまう。
・・・本来ならば、どんな人に対しても殺人行為は犯罪であるはずなのだが、戦争下ではその価値観は逆転し殺人を伴う行動が命令により順法化される。より多く人を殺傷し、より多大な人的被害をこうむらせることが目的化されてしまう道理が独り歩きする。
この戦争と名付けられる集団的活動においては、敵とされる軍人や相手国の市民に対しては、通常の人間としての尊厳は剥ぎ取られてしまう。
もはや人間を人間として扱わない価値観が推奨され、そうした価値観が絶対化される。

○戦争行為には、道徳的な規範は二次的要素として除外され、人道的な発想は一風される。
もし、軍隊にヒューマニズムを挿入しようとしても、個人的一時的なもの以上にはなり得ない。

もし、全世界の国家が、戦争という国家暴力の発動を禁止し、全ての戦闘行為を廃絶する道を選んだら、世界からは軍事的な暴力による被害はその水際にて停止することが出来る筈です。
しかし、核兵器を含む軍事力を国家が使用しない方策はいまだに見つける事が出来ていない。
自国の防衛という目的により正当化され、敵国と想定される国からの攻撃を抑止する目的の為に、膨大な軍事力が依然保持され増強されている。

○思うに、今までどの戦争においても侵略という名目で敵国を責めた戦いはない。どの戦闘行為も、自国や同盟国の国家的財産や人命を救済するという建前の元に、作戦行動が加速度的に正当化されて遂行されてきた。

米国が、広島・長崎の原爆投下について、未だにその圧倒的多数の国民意識として、「より甚大な犠牲を回避するための必要不可欠な作戦行為」であったことを信じていることに端的に表れているように思う。
「原爆投下もやむ無し」という米国人の意識には、パールハーバーにて闇打ちをした日本の軍隊と国民に対する、野蛮な復讐心が燃えたぎっていることは否めない。やったらやり返したい、という人間の動物的な反発心が、冷静な判断力を曇らせていることは確かであろう。
しかし、暴力の応酬が決して物事の解決になり得ないことも少し考えれば容易に見つけ出せる次の答えだということは、多くの人が既に気付いている。

今日、核兵器の脅威が地球上のすべての人間に明日の人類絶滅を示唆しているというのに、一向に核廃絶の事業は進まない。
何千発という核爆弾がすでに作られて実戦配備され、一つ間違えば複数の国家による核爆弾の応酬という事態が繰り広げられる可能性がある。

もはや我々はどこにも逃げるところはない。

では、我々が出来る事は何か?
この問いに答えていく道が、平和の為の活動となろうが、行き着くところはどうなるのか?今だ誰もその答えを持たない。

今年も、夏が来ると64年前の昭和の戦争の歴史が「忘れてはならない戦争の足跡として」報道化されている。
私も含めて、戦後生まれの戦争を知らない世代が多数を占めていく中、もう一度あの戦争の事実の足跡と、傷跡をしっかり見ておきたいと思う。
戦争は決して繰り返されてはならないが、その歴史から目を背けてはならないと心に誓う。