南田さんの死から思うこと

21日、病状が悪化していた南田洋子さんが亡くなった。
・・・人工呼吸をして、どうにもならない状態であったらしい。
くも膜下出血が要因となったが、承知のように認知症も進んでいた。
彼女の死を、夫の長門裕之は役者としての仕事を穴をあけることなくこなしながら受け止め、幕の合間を縫って記者会見等も行われた。

今回の妻の死は、夫である長門氏にとってはどういうものであったのか?・・・それは流されてくる情報の中で様々な受け止め方がされている。
私にとっては、夫婦いろいろあったかもしれないが、芸能人でありながら長く「おしどり夫婦」として歩んでこられた姿が印象深い。
人は年老いていつかは別れていかねばならないが、彼らの晩年の生きざまは人間味溢れるものが感じられた。
役者として演じているのではなく、実生活の中でお互いが支え合って寄り添っている姿が垣間見れた。
・・・心ない人たちは、南田さんの晩年の姿があまりにも若い時分の華やかかりし姿とかけ離れている事実を指摘し、「あのような老醜を見せるべきではない」と評価している。
でも、それは違うと思う。
個々の理想の中の若き日の憧れを、そのまま何十年後のその人の姿に同一化させようとすること自体が無理がある。
人間も生き物であり、若い時の生き生きとした美しさを彷彿させる時期もあれば、年老いて肌の張りが無くなり、皺が増えた顔に変化することは避けられない。
でも、だからと言って年老いる事が醜いとする考え方はどこか承服できない冷たさを感じる。
人間の味を認めない、人としての味わいを感じる事が出来ない人生というのは本当に味気ないものだと思う。

人は老いても、人間としての豊かさや喜びはうわべの華やかさだけでは測り知ることのできない感性として存在していると思う。
このことを理解できない人達は、老いて認知症を患う姿を嫌い隠そうとする。

一昔までは、介護は女性が行うものとされ、家の外にはさらけ出さずに人目を避けて担い続けられてきた。
しかし、これからは介護は社会的なサポートを受けながら、一家族だけが、女性だけが行うものではない方向が示されてきた。
こうした流れを作った介護保険は、その意味では大きな改革であったと言える。
でも、長年の家族中心の介護の流れをほんの10年の介護保険制度ですぐに変わるものではないことも明らかになっている。

長門さん南田さん夫婦のように、愛情も資金もたっぷり満たされている場合はレアケースでしかない。多くの介護の現場では、利用者を支える家族に欠け、公的支援の不十分や地域の理解の欠落、現状の制度自体の不十分の元で多くの不安を抱えている。

長田さんが公開された妻に対する映像とメッセージについて、個々の感想を言うことは自由だが、彼が発信した溢れるばかりの妻への愛情について揶揄することは大人げない。自分ならどうしたいとかどうするとかという思いを持つことは自由だが、それを彼ら夫婦にも押し付ける言動は余りにも身勝手すぎる。とりわけ、認知症という病にかかる人達を、人前には出すべきではないとする見解には納得することが出来ない。
認知症にかかっている状態が不幸であるという断定こそ、これからの日本の福祉において克服していかねばならない意識であることを指摘しておきたいと思う。
たとえ認知症になっても、社会で支えるセーフティーネットを構築する際に、こうした古い根拠のない思い込みは必要のない先入観のようなものだと思うのです。