所在不明の高齢者が続々判明している現実があります。


1億2千万人の生活が営まれている国ですから、いくら管理が進んでいるといってもその実態はほころびだらけです。
 すでに死亡していたにも拘らず、家族が遺体を放置し、そのまま住民登録が継続されてずっと生きていることになっていた100歳を超える老人が発見されたことから、次から次へと行くへ不明のお年寄りが全国で確認され、そのかず数百人がまだ行方知れない実態があるという。こうした事実は、特に都市部で多く発見され社会問題となっている。
本来年金需給経歴が、お年寄りの生存実態と同一であるはずなのに今年金の不正受給問題にもなっているという。
すでに死亡したお年寄りの死亡届が正常に届出と受理がなされていれば、こうした問題は起こらないが、どこかで届出が隠蔽されたり誤って受理処理がなされなかったら、こうした齟齬がいくらでも発生することとなる。

今後、こうした問題をなくすためにどういった本人生存確認をしていくことができるのか?検討が加えられねばならない。
例えば、介護サービス等の利用実績がある場合は、お年寄りの生活実態が明らかなのだが、そうしたサービスが使われていない場合確認の方法がない。
何らかの、公的な見守り確認サービスが必要となるかもしれません。本来、地域でこうした「互助活動」として見守り支援の輪があったのかもしれないが、現状の都市部では、隣近所のつながりはますます疎遠になりつつある。その家に誰が住んでいてどういう暮らしをしているのか?近隣のものが知らない。また、お互いに個人情報を交換する必要性も感じない暮らし方が進んでいる。
 しかし、だからといって例えば警察官が一軒一軒の住民の家族調査を行い調べるやり方にはあまり協力をしたくない。そこでは個人のプライバシーが守られるべきだと思う。確認するとすれば、別の高齢者対策組織が担当すべきであろうがいったいどの組織がするのか?その経費は?など簡単には決められない。

 自らが自由に気ままに生きていける間は良いとして、一人では自立が難しくなり何らかの形で誰かの支援を必要とする年代になれば、とたんに社会や人との関係が維持される必要性を感じることとなる。
この微妙な「老い」の関係を、早くから自覚してそれなりの関係を構築している人は、いざ自分が介護される立場になってもスムースに「非支援者」として生きていくことが可能と思われる。こうしたギアチェンジは、多かれ少なかれ高齢になったり障がいを持ったりする中で生きていくために、必ず身に着けておきたい発想です。

連日の猛暑の中公園や林の下を歩くと、蝉たちが盛んに鳴いていますね。
時々びっくりするのは、目の前を鳴きながら飛んでいってトンと地面に落ち、そのまま動かない姿を何度も見ます。「ぎゃぉー」という表現がふさわしいようなすごい声を出して飛んできたと思えば、ころりんと落下してそのまま命を終える生き方にびっくりします。
長い間地中で暮らし、地上に出てきて熱い季節ににぎやかに死んでいく生命活動がなんだか哀れにも思えますが、何のために大声で鳴いているんでしょうね?
人間には、とてもあれだけの生命力はないかもしれない。
ただ、彼らよりも何十倍も長く生きることができますが。