B.ラディン一家殺害のニュースをどう評価していくか?

昨日から、マスコミ情報は盛んにビンラディンの殺害について報道している。
2001年同時多発テロ以来、アメリカが血なまこになって捜し尽くしていたテロの首謀者として、約10年目にパキスタンで居場所が突き止められ、極秘の軍事作戦が遂行されたらしい。この作戦は、事前にパキスタン政府にも知らされず、アメリカの大統領が直接指揮命令をして少数精鋭の対テロ作戦部隊が深夜に隠れ家とされる郊外の住居を襲い、銃撃戦後に4人全員を殺害して作戦は成功したとされている。死亡した人物がB・ラディンであることは100%間違いないとされている。

 恐らく、探し求めていた本人とその家族であろうことは間違いないのだろうが、その評価に違和感を感じた。
作戦後すぐにオバマ大統領は声明を発表し、「この作戦成功は、アメリカとその同盟国にとって歓迎すべき朗報である」という趣旨の評価を下した。
また、数千人の米国民がホワイトハウスや街路に集まり「アメリカ万歳。作戦成功の祝賀」を叫び、星条旗等をかざしてB・ラディン殺害を喜んだという。
一方情報を知らされた日本の管政権は、「テロ首謀者の殺害は、歓迎すべきことだ」と評価し、テロ撲滅のための大きな一歩になるとの声明を発表し、欧米各国も概ね同じように今回の作戦成功を肯定的に評価した。

パレスチナPLOスポークスマンは、「テロを信奉する勢力への軍事作戦」として歓迎する声明を公にし、ハマスの方は「アメリカと戦うイスラムの聖戦戦士に対する攻撃だ」として抗議の会見を開いた。

各々の立場により、評価が分かれることになるが、そもそもの問題発端が何か?を抑えておく必要がある。

 米国が血なまこになって首謀者を探していたのは、9・11以降の自国の威信が傷付けられ大国としての自国を無差別テロにより踏み砕かれたことに対する報復の意味があった。米国民の憎しみは、過激テロを遂行する集団に注がれ、あらゆる軍事行動は正当化されると考えているようです。

 しかし、9.11テロがなぜ遂行されたか?という原因を辿って考えてみると、そこには何十年という中東やアラブ世界での米国をはじめとする訪米諸国に対する激しい憎しみが下地になっていたことを指摘しなければならない。イスラム教とキリスト教は、まるで水と油のように溶け合わない宗教だと考えられているかもしれないが、本当にそうなのだろうか?

 たしかにイスラム原理主義の考え方というものは、偏ったイスラム信奉者による武力集団となっているかもしれないが、そうした政治集団は世界各国どこにでも見られるナショナルな過激集団につきもののグループではないのか?
とりわけイスラムの宗教的な過激思想のグループがキリスト教勢力に対して敵意を燃やしているとしても、それ自体が悪であると断ずることは不公平であろう。あらゆる被抑圧国家での宗教的集団というものは、権力者に対する反逆や抵抗をエネルギーとして根付いていることはある意味必然であろう。そこで必要とされることは、問題の根源に対する深い洞察と解決策の提言であり、建設的な政治的指導力こそが必要とされているはずではないか?

 問題は、こうしたイスラムの対米強硬派に対して、長年の武力弾圧でしか対応を出来なかった対欧米協調政策のつけというものが、9/11テロ成功により一気に噴火したとみるべきであろう。
米軍による爆撃や軍事弾圧による肉親や家族の虐殺を経験し、テロ活動に走る人々もあったろうし、敬虔で熱心なイスラム信奉者が米国をはじめとした暴力支配に対して敵意をむき出しにしていく過程が、アルカイダをはじめとした過激集団への参加を誘引していると云えよう。
 
 テロを根絶するには、国家という集団による軍事装置に対する規制と縮小も伴わなければ、いつまで経ってもいたちごっこになるだけだろう。・・・つまりやったらやり返すことの繰り返しでしかない。
これは、やくざの「でいり」と何も変わらない。

軍事的な、戦争的な手法で暴力的な攻撃を相手に加えても、多くの血が流れ命が失われることがあっても決して問題の根本的な解決が訪れることはないことを肝に銘じるべきだと思う。このことは、今までの歴史が示しているところです。

B・ラディンはアメリカとその同盟国にとってはテロの首謀者であり、彼とその取り巻き連中を殺害等で消し去ることにより戦いの勝利がもたらされると述べている。しかし、このことは勝利でも何でもないだろう。冷静に考えれば、単なる報復作戦の成功というだけの事実であろう。

 私は、日本の政府が、こうしたテロの主犯殺害作戦を謳歌する声明は出すべきではないと考えた。
こうしたスピーチが持つ重みを考えるべきであろう。
・・・作戦賛同の立場を公にすることにより、それを覚えて日本に対してもテロ作戦の矛を向ける可能性もある。
あくまでも、米国等の軍事作戦と立場が異なることを明らかにすることの方が重要であり、軍事力という暴力装置により問題を解決することに対して「no」の立場を明確にすることの方が大切だと考える。

 この立場は、テロ活動を容認することではなく、それに反対して対話を促進するための政治的経済的文化的活動を奨励することこそが本当の意味での(外交政策)と考えるべきだ。

 米国に象徴される外交政策は、イスラム過激派に対しては軍事的な作戦でしか問題の解決はないという立場を鮮明にしているが、その考え方はあまりにも偏ってはいないか?
この意味では、オバマ氏に求めることは、本来の冷静なバランスある政治家としての判断職を示すことで非タカ派であることを証明してほしい。

かって米国は、六十数年前、日本を原爆投下と空襲により国土を焼け野原にして非戦闘員の日本国民を何百万人と殺害した。・・・この軍事作戦はアメリカでは連合国の「正しい作戦」として現在も正当視されているが、この見方はあまりにも偏り過ぎていることを敗戦で被害を被った日本人は知っている。

 本来ならば、あの戦争により、日本人の多数は米国に対して憎しみを根に持つはずだ。しかし、戦後の復興過程では、むしろ戦争を引き起こして国民を道連れにした戦中軍部の無謀な暴走に対して批判が集中し、米国に対しては戦後の復興を支援する勢力としてその存在を容認する考え方が主流となった。
 逆に、終戦後に北方4島に攻め入って領土を横取りしたソビエトに対する憤りの方が強いかもしれない。

 こうして考えると、国家が起こす戦争に対する国民の評価というものは時代とともに変遷することが分かる。

沖縄の人々は、唯一地上戦が行われて県民の四分の一が殺害されていった歴史を誰も忘れはしないだろう。この意味では、本土の米国観と沖縄の人々の米国観は本質的に異なる。今なお広大な基地を撤去することが出来ない沖縄の人々の平和観は、米軍に対する戦いを抜きにしては問題解決の糸口がないことを一番知っている。日本の政権が、何年たっても基地問題を解決してくれないことに怒り、鳩山前首相の二枚舌に失望し、自民党政権の沖縄犠牲の強制に反対する活動に共感してきたことは、当然の結果であろう。

 問題を集約しましょう。
今回のテロ首謀者の一家殺害に対して、とても正直喜び賛同を送ることは出来ない。むしろ新たな報復テロの再発を懸念する。

暴力に対して暴力で制することは出来ない!
このことを、改めて肝に銘じていきたい。

暴力を根絶するものは、お互いのコミュニケーションを通じて理解しあうことです。
自分と異なる考え方、自分と別の宗教、自分と異なる生き方を認め合うところからしか、本当の意味での共存はあり得ないからです。

 どうすれば、人と人とが共にこの地球上で平和に暮らしていけるのか?

このテーマこそ、人である誰もが、生涯かけて学び、後世の人達に伝えていく必要がある証言である筈です。

どうか、その証言が、血で血を洗う報復に終始することがないことを祈りたい。


*毎日、朝顔の芽が新しく土から顔を出す姿を見て、感動しています。

…ほら、すごい生命力ですよ!